元村正信の美術折々-2020-03

明日なき画廊|アートスペース貘

2020/3/29 (日)

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美術折々_264

近しくも遠いもの

「最悪の事態」とは何のことだろう

最悪の先には さらなる未知の最悪があるはずだ
じゃあ人類共通の最悪というものがあるのだろうか

一方 たとえば「最高の美」はどこにあるのだろう
だれもが同時に共有でき感受することのできる
最高の美などあるのだろうか

小林秀雄はかつて
「美しい花がある 花の美しさという様なものはない」と言った

しかもその美しい花は 人それぞれにあって
美しいものは異なるはずだ

それでも だれも経験したことのない事態や美が
この世のどこかにあるのだろうか
それともそれらは これから出合うコトや モノなのだろうか

だったら人類がこれまで経験した最悪や最高とは
何だったのかということになる
それを上回るものを いま想定し あるいは想像して欲しい
という またそれはワタシにとっての最悪か 国家にとっての最悪なのか
そこに 底なしの墜落 と 喩えようのない恍惚を思い描けるだろうか

まるでたったひとつの最悪があり 最高の美がひとつしかないかのように
それでも 最悪最高は 瓜ふたつ あなたはわたしで
美醜で快不快は つね日頃そこかしこにあるものだ

だれの死だって いつも生の先のどこかにあるものを
その近しくも遠い死を 美を きょうの数にして
最悪最高化する

生はもっとたしかに遥かに ビミョーで深淵だから
最悪にも最高にも ひるまないだろう

いつだって最悪は 最悪のその次にやって来る
だから本当の最悪を ひとはまだ誰も知らない

2020/3/24 (火)

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美術折々_263

何ものにも挫かれない生

日々、新型コロナウイルス感染症の話題で持ちきりだ。私たちは、世界は、いったい何を恐れているのだろう。
「人の死」か「経済の死」か。そのどちらをもか。

今回のウイルスを、見えない敵との戦いなどと言ういい方がある。もしこれが「戦争」なら人類が勝利するために犠牲はありうるとして、ならばそれをできるだけ少なく、という願いである。一年後か何年か先のワクチンができるまでの戦いという訳だ。それまでは集団免疫をいかに抑制し緩和しながらコントロールしていくかが、世界のおおかたの見通しなのである。

むろんその前に多くの「人の死」があり医療の混乱があり、「経済の死」の前に停滞しない経済の活性化が試され続ける。某メディアは言う「この危機をともに克服しよう」と。

しかし、「人の死」と「経済の死」は対立し矛盾するものなのに、それを「ともに克服しよう」と整合し調整しようと苦心しているのが現在なのだ。緊急事態や非常事態などと言って、人の動きを、自由を規制する訳だ。だが現実には「人の死」と「経済の死」のあいだには、私たちの「生活の死」があることを忘れてはならない。国家は不安定で零細な人たちが仕事を失うことでの「生活の破綻」を回避するためにそれを補償してくれるのか。

ではあれほど言われてきた「格差社会」は、この感染症のおかげで解消されるのだろうか。そんなはずはない。つまり私たちは格差的にも貧困においてもいっそう感染するということなのである。だから都合よく格差社会を語らないことにして、人の動きを自由を多くはない収入源を、規制する権利はだれにもないと僕はおもう。罰金などあってはらない。もちろん感染の、死に至る可能性はだれにでもあるが、「生活の死」をだまって待つ訳にはいかない。つまり規制の名のもとに生活できる補償がされないのなら、これまで通り学び働き喜び悲しみ苦しみ楽しみを日々の糧にするしかないではないか。

じぶんがその事で不意に感染しその結果、死が訪れるのならそれは仕方ないと僕は思う。もちろん大人は親は自分たちよりも前に子どもたちを守ろうとすることは言うまでもない。これまで働いてきた人は同じように働き、学ぶ人は学ぶ。今まで通りの生活を続ける。そうしながら「感染症」を警戒するしかないのではと思う。それが生活を守る、じぶんを守るということではないだろうか。

もう一度いえば、「人の死」は経済の動向に左右されてはならない。国家優先の犠牲になってはならない。一方「経済の死」は人類の死の先にしか訪れない。たとえ経済の恐慌が起こっても、人類が絶滅する訳ではないということだ。ただ死の予測数は伏せられている。禁句のように。私たちは何を恐れているのだろう。経済を支える労働力の死か、税収源の死か、需要の消滅か。

だが、私たちが〈生存〉し続けることさえできれば、何度でも新しい経済をつくり直すこともできる。「人の死」は、だれにとってのものであるのだから、見えない何かに打ちかとうとするのではなく、何ものにも挫かれずに、たくましく生きることだけを考えて行けばいいのではないだろか。欺瞞を恐れることはない。

2020/3/17 (火)

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美術折々_262

だれにも 心当たりがあるはずの

今回の感染症の流行を受けて、ある評者が先日のTVで「人の死以前に、世界経済は深刻になる」と案じて発言していた。これには驚く。死か経済か、そのどちらかを選択するよりスゴイと思う。なぜなら「人の死以前に」つまり「経済の恐慌」を心配しているからだ。人の死以前にあるもの、それはただひとつ、人間が「生存」するということしかないではないか。このような危機になぜまず生存のありようを案じないのだろう。きっとこのような人にとっては、経済あっての生存なのだ。

12日、アメリカによる欧州からの入国禁止措置発表でニューヨーク株価が過去最大に急落した。グローバルに人やモノが動かなくなり消費されずに、需要が停滞し消滅する方に向かうことを警戒しその後も株価は乱高下している。成長のみを信望する経済は市場は、どんな時でも人の死を恐れてなどいない。いやむしろ人の生命と
健康そして分配、富と財産を未来に「約束」するものだと励ますだろう。経済が悪化すれば、賃金・労働・仕事そして生活だって破綻に追い込まれるんだぞ、と言わんばかりに。

では「人の死以前に」と軽んじられた、人の死はどうなのだろう。私たちが感染を恐れているのは、その先の「死」の可能性を恐れているからではない。つまり労働の、収入の、生活への不安が、マスクという表現に表れているだけである。もし、休校し休業し外出を控え、催事を仕事を自粛して生活の糧が「補償」されるのならば、そのような要請も受け入れられるかも知れない。そうならなくとも新型コロナウイルス感染症の収束には世界は多くの死をまたがなければならないが、経済が恐れているのは何よりも「需要の消滅」なのだ。

その意味で、人の死と経済は対立すらしている。多数の死を経済は超えることができる。だがどれほど人が死のうと、死は経済を超えることはできない。たとえ予防し自己防衛したとして、じゃあ不意に訪れる私たちひとり一人の死を経済は、あがなってくれるのか。生も死も私たち自身のものでありながら、経済はその生も死をも
置き去りにし格差化してやまないのだから。

しかし経済の成長は、あらかじめ私たちの「生活」を織り込み済みだから勤勉な労働力を計算に入れ、日々市場経済に送り出しているのである。こんな時だからこそ、経済の、市場というものの圧倒的に非情な、そして無慈悲の相貌を私たちは体験することになるかも知れない。それが多数の人の死を、未知なるパンデミックを乗り越える原動力になることは間違いないだろう。だがそれでも「人の死以前に」あるもの。つまり私たちの「生存」は、あらゆる「経済以前」にあるのだということを忘れる訳にはいかないのだ。

〈生存する〉とはどういうことか。
それは「いま生きているのだという瞬間を一瞬でも実感できること」だと思う。
おそらくそんな生存の覚えは誰にも心当たりがあるはずだ。それが「人の死以前に」在るべきものではないか。
たとえ世界経済がどのように乱高下しようと、私たちの生はそれにもかかわらず〈生存〉し続けることだろう。

2020/3/11 (水)

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美術折々_261

「芸術は続くのか」と問うこと

久し振りに「美術手帖」を買って読んだ。その4月号は、緊急特集「『表現の自由』とは何か?」
特にサブタイトルの「芸術を続けるためのアイデアと方法」という題にひかれて。

内容は「あいちトリエンナーレ2019」の中の「表現の不自由展・その後」に端を発した例の事件を軸に、それによっても生じた表現の自由、規制、検閲と言った諸問題を様々な提言、資料やインタビュー、ディスカッションを通して浮き彫りにしようとするもの。

緊急というには少し遅すぎた感もあるが、まあそれはいい。ただタイトルの「『表現の自由』とは何か?」に対する正面からの問いを期待するとたぶん裏切られることになるだろう。これは「表現の自由」を問うというよりも、むしろ美術における今日的不自由さの問題に言及した多角的な証言集、とでも言った方が近いのではないだろうか。

僕が冒頭でひかれたと言った、副題の「芸術を続けるためのアイデアと方法」、本文中では「美術を続けるための」とも言っているのだが、ひかれたというのは、じつは引っ掛かったということなのだ。では何が引っ掛かったのか。

それは「続けるための」という時、芸術あるいは美術を目的化してはいないだろうか、という危惧を感じたからだ。続けるための芸術ではなく、はたして「芸術は続くのか」と問うことこそ「表現の自由」とは何か?に対する応答となるのではないか、ということなのだ。もちろん若い世代にとって「続ける」というのは、これから長く生き残って行かねばならない切実な問題であるのも分かる。だから「芸術を続けるための」になるのかも知れない。

だが僕のように「芸術は続くのか」と問うことは、不自然なことなのだろうか。なおも「芸術はありうるのか」と僕はいつも考えている。芸術は美術は、けして自明ではないからその概念もまたつねに揺らぎ拡張しているのではないか。だから芸術は目的化、道具化してはならないのだ。古代や古典のみを芸術化し遺産化してはならない。芸術という未来を見てみたいからこそ、「芸術は続くのか」と問いたいのだ。

そして「表現の自由」を問うまえに、なぜ、表現は不自由なのかをかんがえる必要があるはずだ。そう問う必要があるはずなのだ。

2020/3/4 (水)

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美術折々_260

(続) 死か、経済か。そのどちらでもなく

感染というなら店頭から消えたマスクはまだしも、トイレットペーパーは前回触れたが。こんなものもある。
3月2日(月)付 毎日新聞夕刊には、あのカミュの小説『ペスト』が全国の書店で売り切れ続出。在庫がなくなり、出版元では急きょ4000部を増刷するとの記事が大きく載った。朝日新聞は1万部とも報じている。今のところ数的にはベストセラーとまではいかないが、今回のウイルス感染でカミュを読むというより「ペスト」への関心からこんな現象となったようだ。

僕には、この店頭から消えたトイレットペーパーとカミュのペスト本が同じものに見える。どちらを買っても感染への不安が解消されるわけでも、それへの答えが出る訳でもないのになぜ無くなったのだろうか。
購買層がおなじだとは考えにくいし、もちろん本を読んで何かを学ぶことに異論などない。いずれにしても間近な不安の心理が別の連想を、消費という衝動を促していることは言えそうだ。

でもこのカミュの『ペスト』は、よく言われるように伝染病や様々な悪に立ち向かう人々の連帯感や人間の不条理のみを描いたのではない。そのことをを最終部分においてカミュはこう表現している「おそらくいつか、人間に不幸と教訓をもたらすために、ペストがふたたびその鼠どもを呼びだし、どこかの幸福な都市に彼らを死なせに差しむける日が来るであろうということを」と書き記している。

時にたやすく、あっけないほど人は死ぬ。だが生物である細菌にしても生物かどうか分からないウイルスにしても、何度でもどんな時代においても突然再来し侵入し私たちをむしばむものだとカミュは予告したのだろうか。たとえばカミュはそれに先だつ小説『異邦人』において、なぜあれほど圧倒的に「太陽」の光を賞賛したのだろう。そしてその太陽を自らふり払った。主人公のムルソーはフランス語の「死」と「太陽」の合成語だという。僕の独断でいうなら、カミュにとって「幸福」はいつも「死」と隣り合わせにあり最後は互いにそれを重ね合わそうとしたのではないか。もちろん自身の戦災孤児としての出自と、二つの世界大戦が影を落としていることは否定しえないにしても。

ひとりの死、そして多数の幸福。それはまたひとりの幸福として、あるいは多数の死者と言い換えることもできる。だから『ペスト』もまた集団の死と幸福を対置させたのだと。現代ではそれを、死か、経済か、と問うこともできる。ひとりと多数はどこまでも折り合わない。メルソーが犯した『幸福な死』もまた、ムルソーが「太陽のせい」にした〈無実〉のための許されない理由なのではと思ったりする。

カミュからすれば未来の、私たちには現在のこの世界。その「どこかの幸福な都市に彼らを死なせに」訪れているもの。そして店頭から消えたもの、日常に不足するものの光景が、私たちの「死」を寓意するものなのか、あるいは「経済」の欺瞞を嘲笑しているのか。
そのどちらでもなく、と言える時がくればいいのだが。

2020/3/1 (日)

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美術折々_259

死か、経済か。そのどちらでもなく

私たちはいま、いったい何を恐れているのだろう。
つまり、それほど意識しなかった望まない死の可能性に対してなのか。しかしほんとうに「死」をおそれているのだろうか。店頭から消えたマスクやトイレットペーパーは、そんな死への防衛になっているのか。

ではこれまでのインフルエンザは、ワクチン接種や治療薬があるから毎年の流行や感染に「死」の恐れを感ぜずに済んできたのか。
たとえば「PRESIDENT Online」2020年2月18日付の本川 裕 氏(統計データ分析家)の報告によると、
インフルエンザの日本国内の近年の死亡者数は下記のとおりだ。
2016年_1463人
2017年_2569人
2018年_3225人
2019年_(1〜9月迄)すでに3000人超という数宇が出ている。特に昨年1月は、なんと1日平均〈54人〉が死亡したという。
ワクチン接種や治療薬があっての、この数字である。では私たちは、毎年この死者数におびえ恐れそのことによって「死」を近しいものとしてきたのか。ノンである。ほとんどは遠い他者の死として受け流してきた。いやそれさえ知らなかったはずだ。でも平穏な日常とはこういうものだ。

ひるがえっていまの日本における新型コロナウイルス。ここでも感染することを私たちは恐れている。だがほんとうにインフルエンザ以上に「死」は差し迫っているのか。私たちはいま、いったい何をいちばん恐れているのだろう。じぶんの死か、近しいものの死か、親しいものの死か、愛するものの死か、それとも見知らぬ他者の死か。

いや違う。それならこの国がいまも一体何を「最優先」し、最重要課題としているかを思い起こせばいい。それはたったひとつしかない。つまり停滞のない「経済」の活性化だ。経済の後退を成長の挫折を、いちばん恐れているから他のすべての課題や解決すべき問題を押しのけて、事あるごとに「最優先」として扱われてきたのではないか。

いま判断されていることは、すべての問題が究極的には「死」か「経済」かという、どちらかに至る選択を前にして決断実行されていることになる。「死」とは当然かけがえのないひとりの人間の死であり、「経済」とは人の死からもっとも隔たった富の資産の流動の分配の、やまぬ成長の総体である。五輪の幻影もすぐそこに見える。ひとの「死」と「経済」は比較にならないと言われるだろうか。だがひとの死は経済を超えることはないが、経済はどんなひとの死をも超えて行く。それは世界の何億人の死であってもだ。過去のパンデミックのすべてがそう教えている。

だから私たちがほんとうに恐れなければならないのは自らの肉体の死の可能性よりもまえに、「経済」の先行きや状況、理由によって私たちが格差的に追いつめられ働けなくなり「生活死」に至るかも知れないこの日常の混乱であり、不当な疎外をこうむることの方ではないだろうか。

だれもが感染する可能性があるのだとしてもそれは同時に、それ以上に感染しない可能性のことでもあることを、忘れたくない。

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