元村正信の美術折々|2016

明日なき画廊|アートスペース貘

2017/6/23 (金)

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美術折々_102

青空の枇杷色


どんな苦痛であろうと、苦痛を知ってから抵抗するのは遅すぎる。「気を失って」からでは遅すぎるのだ。

私たちが何かに抵抗しようとするのは、突然あるとき自分でも知らないうちに、苦痛というものが
理不尽にも襲いかかって来ることを先人たちから学んでいるからだ。それでも与えられてしまった苦痛は
消しようもないが。

たとえば、ニーチェが「すべての快のうちには苦痛がふくまれている」(『権力への意志』下、ちくま学芸
文庫)という時、快は権力でもある。権力は、とうぜん苦痛を養うことになる。それだからこそ権力は
「不快の状態で測定」されなければならないし「正常な不満足」の声、つまり〈抵抗〉を必要とするのである。

ニーチェは「二分裂が権力への意志の結果としてあらわれる」と言った。それは快と不快、強者と弱者、
満足と不満足…それぞれが求め合いながら、反発しながら増大して行く状態を〈権力への意志〉と言ったのだ。

だからこそ、ここにはそれらの対立が、抵抗が渦巻く。これを「権力への二重性」と言い換えてもよいだろう。
それゆえに私たちの抵抗の「声」は苦痛からの抵抗ではなく、苦痛を予見した抵抗でなければならないはずだ。

おなじくニーチェが、「世界は、合理的には存在しない何ものかである」というとき、そこには「権力への
意志を阻止」するものとしての「人間」を見ていたのではないだろうか。この非合理な生き物としての人間を。

人は、やはり自らが抵抗すべき何かをあらかじめ知っているのであり、対抗すべき何ものかを必要として
いるのである。 屈託のないかのような青空にさえ、抜けるような苦痛はひろがっているのだ。

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2017/6/16 (金)

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美術折々_101

安部義博 ・ 2017

このように混沌とした絵画は、そうあるものではない。安部義博の個展のことである。

彼はみずからを「無能」と言うけれど、もし彼が本当に無能なら、私たち誰もがそれぞれが持っていると
思っている何がしかの「能力」は、いったいどんなものになるのだろう。

一度でも、安部義博の絵画に接したことのある人なら分かるかも知れないが、彼の絵だけが持つ、謎というか、
迷路というか、つまり 〈混沌〉は、なにげなく理解するということとはまったく逆の戸惑いを、私たちに
差し出す。

今ではすっかり、「絵画」を見るということの先入見となってしまった、驚きあるいは心地よさ、もしくは
楽しみといったものが、ここにはない。それほどに安部義博の絵画は、僕から言うと「見えにくい」。
でもそれは、目さえ開いていれば見えるということになるのか。盲目でなければ見えるのか、という問いとも
とうぜん重なっているのだ。

彼が描けば描くほど、その直前に描かれた痕跡が層をなして行く。それでも絶えず、描くということが彼の行為を打ち消している。みずからが打ち消しながら描く。そういう矛盾、いわば彼のなかの否定性が安部義博の絵画を貫いている、と僕は思う。

それが何よりも、安部義博の「絵画」が持つ 〈混沌〉なのではないだろうか。

こう言ってよければ、醜さ、濁り、混迷もしくは悲惨、残虐、暴力、抑圧…数え切れない痛苦等々。
そのような「負荷」のどれをも感じさせる絵なのである。しかしそのことは、彼の「絵画」がそのどれをも
合わせ持ちながら、同時にそのすべてを拒否しているように僕には思える。

それらのどれもが昨日あった、ついさっき起こったはずなのに、それをまるで無かったかのような〈錯覚〉に
してしまうことで、今のこの穏やかな昼下がりのまどろみは仮構されているのだと、彼の絵がおしえてくれる。

おそらく、安部義博の絵画における混濁した色彩も、過激な筆触も、すべてが私たちの日常という名の欺瞞への
「思い違いの破壊」に向けられていることは、ここに記憶しておいていいのではないだろうか。

またそれは、だれもが見ることの出来る絵画だが、だれもが見ることの出来ない絵画だとも言っておこう。

  
            (同展は福岡市中央区天神2丁目の「ギャラリーとわーる」にて、6月18日まで)

2017/6/10 (土)

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美術折々_100

もしそれが、痛烈なアイロニーかパラドックスだとしても


第57回ベネチア・ビエンナーレ2017が、5月13日に開幕した。今週早くも 6月3日付読売朝刊、
8日付日経夕刊と、新聞の文化面は、相次いでその展覧会レポートを掲載していた。

今回の総合ディレクターは、パリのポンビドゥー・センターのチーフキュレーターである
クリスティーヌ・マセル。彼女の提示したテーマは、「Viva Arte Viva」(芸術万歳)。

すでにこの気恥ずかしい程の、現状肯定的なテーマ自体に、現在の「世界の芸術」の深刻な混迷振りが現れて
いるように僕には思われる。はたしてそれが、単純に「芸術がもたらす効果に希望を持ち、芸術自体への礼賛を
目指し」ていると言えるのだろうか。「アートワールド」とは、そのようなものなのか。

人類にとって未曾有の功利主義が蔓延するこの世界にあって、止むことのない移民や難民の流失、そして貧しさと富との埋めようのない格差を、私たちは、どこまで拡大し拡張して行けば気がすむというのだろう。

そんな現実に対して「『芸術』の役割を見つめ直す意図」があるのだとしても、私たちはいったい「芸術」に、
なんの「役割」を期待すればいいのだろう、あるいは期待しようとしているのだろうか。

「芸術は世界を変えてこなかったかもしれないが、芸術にはやりなおす余地が残されている」と、
クリスティーヌ・マセルは記者会見で語ったそうだ。「やりなおす余地」というのは、芸術自身の歴史への反省なのか。それともこのような世界に対しての、芸術自身の無力さへの反省のことなのか。

社会学者のイマニュエル・ウォーラステインが言ったように「世界の資本主義システムが構造的な危機を迎えている」ことに、「芸術」だけが無関係でいられるはずはない。
このような危機に、「世界の芸術」は、どう批判的に答えられるのだろう、と僕は思う。もちろん、危機は
どんな時代にだってあったし、私たちはこれからも延々と「危機」というものに見舞われるはずだ。

しかもこの現在の、世界を覆う「恐怖と不信感」は、何も隣り合わせの〈テロ〉だけではないのだ。

『芸術万歳』とは、いったい誰に向けて発せられているのだろう。ここにどんな「アートパワー」が
あるのだろうか。そこにもし「芸術の力」というものが、行使できるのなら、それはどんな形なのか。

私たちはまず、そのことに一度は思いを凝らしてもいいのではないだろうか。

「Viva Arte Viva」、それがどれほど痛烈なアイロニーかパラドックスであるにしても。



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