元村正信の美術折々/2020-03-01

明日なき画廊|アートスペース貘

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美術折々_259

死か、経済か。そのどちらでもなく

私たちはいま、いったい何を恐れているのだろう。
つまり、それほど意識しなかった望まない死の可能性に対してなのか。しかしほんとうに「死」をおそれているのだろうか。店頭から消えたマスクやトイレットペーパーは、そんな死への防衛になっているのか。

ではこれまでのインフルエンザは、ワクチン接種や治療薬があるから毎年の流行や感染に「死」の恐れを感ぜずに済んできたのか。
たとえば「PRESIDENT Online」2020年2月18日付の本川 裕 氏(統計データ分析家)の報告によると、
インフルエンザの日本国内の近年の死亡者数は下記のとおりだ。
2016年_1463人
2017年_2569人
2018年_3225人
2019年_(1〜9月迄)すでに3000人超という数宇が出ている。特に昨年1月は、なんと1日平均〈54人〉が死亡したという。
ワクチン接種や治療薬があっての、この数字である。では私たちは、毎年この死者数におびえ恐れそのことによって「死」を近しいものとしてきたのか。ノンである。ほとんどは遠い他者の死として受け流してきた。いやそれさえ知らなかったはずだ。でも平穏な日常とはこういうものだ。

ひるがえっていまの日本における新型コロナウイルス。ここでも感染することを私たちは恐れている。だがほんとうにインフルエンザ以上に「死」は差し迫っているのか。私たちはいま、いったい何をいちばん恐れているのだろう。じぶんの死か、近しいものの死か、親しいものの死か、愛するものの死か、それとも見知らぬ他者の死か。

いや違う。それならこの国がいまも一体何を「最優先」し、最重要課題としているかを思い起こせばいい。それはたったひとつしかない。つまり停滞のない「経済」の活性化だ。経済の後退を成長の挫折を、いちばん恐れているから他のすべての課題や解決すべき問題を押しのけて、事あるごとに「最優先」として扱われてきたのではないか。

いま判断されていることは、すべての問題が究極的には「死」か「経済」かという、どちらかに至る選択を前にして決断実行されていることになる。「死」とは当然かけがえのないひとりの人間の死であり、「経済」とは人の死からもっとも隔たった富の資産の流動の分配の、やまぬ成長の総体である。五輪の幻影もすぐそこに見える。ひとの「死」と「経済」は比較にならないと言われるだろうか。だがひとの死は経済を超えることはないが、経済はどんなひとの死をも超えて行く。それは世界の何億人の死であってもだ。過去のパンデミックのすべてがそう教えている。

だから私たちがほんとうに恐れなければならないのは自らの肉体の死の可能性よりもまえに、「経済」の先行きや状況、理由によって私たちが格差的に追いつめられ働けなくなり「生活死」に至るかも知れないこの日常の混乱であり、不当な疎外をこうむることの方ではないだろうか。

だれもが感染する可能性があるのだとしてもそれは同時に、それ以上に感染しない可能性のことでもあることを、忘れたくない。

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