元村正信の美術折々/2020-03-17

明日なき画廊|アートスペース貘

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美術折々_262

だれにも 心当たりがあるはずの

今回の感染症の流行を受けて、ある評者が先日のTVで「人の死以前に、世界経済は深刻になる」と案じて発言していた。これには驚く。死か経済か、そのどちらかを選択するよりスゴイと思う。なぜなら「人の死以前に」つまり「経済の恐慌」を心配しているからだ。人の死以前にあるもの、それはただひとつ、人間が「生存」するということしかないではないか。このような危機になぜまず生存のありようを案じないのだろう。きっとこのような人にとっては、経済あっての生存なのだ。

12日、アメリカによる欧州からの入国禁止措置発表でニューヨーク株価が過去最大に急落した。グローバルに人やモノが動かなくなり消費されずに、需要が停滞し消滅する方に向かうことを警戒しその後も株価は乱高下している。成長のみを信望する経済は市場は、どんな時でも人の死を恐れてなどいない。いやむしろ人の生命と
健康そして分配、富と財産を未来に「約束」するものだと励ますだろう。経済が悪化すれば、賃金・労働・仕事そして生活だって破綻に追い込まれるんだぞ、と言わんばかりに。

では「人の死以前に」と軽んじられた、人の死はどうなのだろう。私たちが感染を恐れているのは、その先の「死」の可能性を恐れているからではない。つまり労働の、収入の、生活への不安が、マスクという表現に表れているだけである。もし、休校し休業し外出を控え、催事を仕事を自粛して生活の糧が「補償」されるのならば、そのような要請も受け入れられるかも知れない。そうならなくとも新型コロナウイルス感染症の収束には世界は多くの死をまたがなければならないが、経済が恐れているのは何よりも「需要の消滅」なのだ。

その意味で、人の死と経済は対立すらしている。多数の死を経済は超えることができる。だがどれほど人が死のうと、死は経済を超えることはできない。たとえ予防し自己防衛したとして、じゃあ不意に訪れる私たちひとり一人の死を経済は、あがなってくれるのか。生も死も私たち自身のものでありながら、経済はその生も死をも
置き去りにし格差化してやまないのだから。

しかし経済の成長は、あらかじめ私たちの「生活」を織り込み済みだから勤勉な労働力を計算に入れ、日々市場経済に送り出しているのである。こんな時だからこそ、経済の、市場というものの圧倒的に非情な、そして無慈悲の相貌を私たちは体験することになるかも知れない。それが多数の人の死を、未知なるパンデミックを乗り越える原動力になることは間違いないだろう。だがそれでも「人の死以前に」あるもの。つまり私たちの「生存」は、あらゆる「経済以前」にあるのだということを忘れる訳にはいかないのだ。

〈生存する〉とはどういうことか。
それは「いま生きているのだという瞬間を一瞬でも実感できること」だと思う。
おそらくそんな生存の覚えは誰にも心当たりがあるはずだ。それが「人の死以前に」在るべきものではないか。
たとえ世界経済がどのように乱高下しようと、私たちの生はそれにもかかわらず〈生存〉し続けることだろう。

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