元村正信の美術折々/2020-03-24

明日なき画廊|アートスペース貘

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美術折々_263

何ものにも挫かれない生

日々、新型コロナウイルス感染症の話題で持ちきりだ。私たちは、世界は、いったい何を恐れているのだろう。
「人の死」か「経済の死」か。そのどちらをもか。

今回のウイルスを、見えない敵との戦いなどと言ういい方がある。もしこれが「戦争」なら人類が勝利するために犠牲はありうるとして、ならばそれをできるだけ少なく、という願いである。一年後か何年か先のワクチンができるまでの戦いという訳だ。それまでは集団免疫をいかに抑制し緩和しながらコントロールしていくかが、世界のおおかたの見通しなのである。

むろんその前に多くの「人の死」があり医療の混乱があり、「経済の死」の前に停滞しない経済の活性化が試され続ける。某メディアは言う「この危機をともに克服しよう」と。

しかし、「人の死」と「経済の死」は対立し矛盾するものなのに、それを「ともに克服しよう」と整合し調整しようと苦心しているのが現在なのだ。緊急事態や非常事態などと言って、人の動きを、自由を規制する訳だ。だが現実には「人の死」と「経済の死」のあいだには、私たちの「生活の死」があることを忘れてはならない。国家は不安定で零細な人たちが仕事を失うことでの「生活の破綻」を回避するためにそれを補償してくれるのか。

ではあれほど言われてきた「格差社会」は、この感染症のおかげで解消されるのだろうか。そんなはずはない。つまり私たちは格差的にも貧困においてもいっそう感染するということなのである。だから都合よく格差社会を語らないことにして、人の動きを自由を多くはない収入源を、規制する権利はだれにもないと僕はおもう。罰金などあってはらない。もちろん感染の、死に至る可能性はだれにでもあるが、「生活の死」をだまって待つ訳にはいかない。つまり規制の名のもとに生活できる補償がされないのなら、これまで通り学び働き喜び悲しみ苦しみ楽しみを日々の糧にするしかないではないか。

じぶんがその事で不意に感染しその結果、死が訪れるのならそれは仕方ないと僕は思う。もちろん大人は親は自分たちよりも前に子どもたちを守ろうとすることは言うまでもない。これまで働いてきた人は同じように働き、学ぶ人は学ぶ。今まで通りの生活を続ける。そうしながら「感染症」を警戒するしかないのではと思う。それが生活を守る、じぶんを守るということではないだろうか。

もう一度いえば、「人の死」は経済の動向に左右されてはならない。国家優先の犠牲になってはならない。一方「経済の死」は人類の死の先にしか訪れない。たとえ経済の恐慌が起こっても、人類が絶滅する訳ではないということだ。ただ死の予測数は伏せられている。禁句のように。私たちは何を恐れているのだろう。経済を支える労働力の死か、税収源の死か、需要の消滅か。

だが、私たちが〈生存〉し続けることさえできれば、何度でも新しい経済をつくり直すこともできる。「人の死」は、だれにとってのものであるのだから、見えない何かに打ちかとうとするのではなく、何ものにも挫かれずに、たくましく生きることだけを考えて行けばいいのではないだろか。欺瞞を恐れることはない。

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