元村正信の美術折々-2019-08

明日なき画廊|アートスペース貘

2019/8/24 (土)

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美術折々_226

保証なき芸術の痛切さ

8月21日(水)付 朝日新聞朝刊は、全10段のスペースを割き「不自由展中止いま語る」と題して、あいちトリエンナーレの芸術監督・津田大介へのインタビューを掲載していた。もちろんこの異例の大きな扱いは、津田が同紙の論壇委員を経て現在、論壇時評の筆者でもあることと無関係ではないだろう。多くの不当な抗議や妨害、脅迫そして介入によって企画展中止に追い込まれた現在。一読して、身動きできないでいるいまの津田の立場とその苦悩は分からなくはない。

同トリエンナーレの「コンセプト」を読まれた方もいるとおもうが、そこでは「感情」で拒否する動きに対しそれを打ち破ることができる力としての、「本来の『アート』」を主張している。その末尾を津田は「われわれが見失ったアート本来の領域を取り戻す舞台は整った」という言葉で結んでいる。皮肉と言えば皮肉だ。開催を前に文字通り舞台は一応整っていたのだろうが、そこでの表現は3日間で挫折を余儀なくされてしまった。

しかし「アート本来の領域」、「本来のアート」とは何なのか。そこでは「『アート』という単語がすなわち『芸術』や『美術』という意味に変容していくのは19世紀以降の話である」と説いている。もちろん「本来」とは西欧近代以前の、artさらに遡ればarsを指しているのだが、日本という近代では逆にartの翻訳語である『芸術』や『美術』が、たかだかこの25年の間に、そのartとは掛け離れた『アート』というカタカナ言葉に
変容したのである。僕から言えば、われわれが二重にその屈折をへて見失ったのは「アート」ではなく「芸術」や「美術」の方なのである。もちろんこれは、あいちトリエンナーレだけのことではない。

今ではこの国の表現が、カタカナのなんでもアートへと〈総表現化〉したのである。そして今回「表現の自由」はこの総表現化した市民たちからの不当な攻撃にあった。つまりここでも互いの「感情」の表現は二分されているのだ。いやすでに対立として分断されているのかも知れない。今回の問題を、多くは「表現の自由」が守られるかどうかを問うている。海外からの参加アーティストたちのオープンレターもそうだろう。

だが僕は、ここまで問題が大きくなったのは曖昧な「表現の自由」のみにことが焦点化されたからだと思う。
そもそも「国際芸術祭」であるはずものが、つまりそこで「芸術」というものが正面から何ら問われなかったからだと考える。企画展「表現の不自由展・その後」を、「表現の自由」としてのみ擁護するのではなく「芸術の問題」として、釈明し反論し跳ね返すべきなのだ。ではこの芸術祭で「アート」は、どう問われているのだろうか。裏返せばアートの無力さであり、自由というものの無力さである。いや表現の無力と圧力という表現がそこにある。じつはその意味で、「芸術の問題」と「表現の自由」は対立すらしているのである。

この芸術祭が、「芸術」というものを一度も問えないまま、いくら表現を自由を持ち出しても「中止」への拘束は解けない。僕は思う。いまも閉鎖されたままの「表現の不自由展・その後」の会場の壁に、いちど針ほどの穴を空けて不自由な鑑賞をだれもが体験できるようにしてみてはどうだろう。「針の穴」を通してしか見ることのできない表現を、不当な抗議を仕掛けたものたちはどう思うだろうか。しかしそれでも〈芸術のみが持つ痛切さ〉が伝わる訳ではない。なぜなら芸術の理解を、芸術を保証するものなど未だどこにもないからである。
ただ芸術は不当な抗議を無効にする。

2019/8/16 (金)

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美術折々_225

残された不変の課題

前回、僕はアドルノの「芸術は幸福の約束であるが、その約束は守られることがない」という言葉を引きそれを踏まえた上で、もし芸術という表現に「自由」があるなら、それは守られることがない、といった。
ではなぜ自由が、守られることはないのか。それはいまだ「自由」というものが定義されず、確定してる訳ではないからだ。確定していない自由を、いくら表現〈の〉自由をあるいは不自由を主張したとしても、自由は表現の内に曖昧なまま残されているからである。だから自由はたやすく破られる。

今回の「あいちトリエンナーレ」の企画アドバイザーでもあった東浩紀が、辞任を表明した8月14日付の自身のツイッターの中で「海外のアーティストは表現の自由を訴えている」、「表現の自由を守らない美術展を支持するアーティストはいません」と語っている。僕に言わせれば、守るべき「自由」が先にあるのではない。表現の自由を「守る」のではなく、自由はいかにして表現から守られるのか、あるいは守られないのか。そして表現〈からの〉自由は、いかに獲得されるかなのだ。

いや何も東浩紀ひとりが「表現の自由を守る」と言っているのではない。多くのひとがそう主張するはずだ。
だがいくら表現の自由を守ると言ったとしても、確定していない「表現の自由」など、そもそも守りようがないのだ。自由は表現の前提としてそこにあらかじめあるのではない。だから「あいちトリエンナーレ2019」の中の企画「表現の不自由展・その後」に向けられたあらゆる不当な「抗議」も、曖昧な「表現の自由」という脆弱さに対しての攻撃であり表現であったのだ。

たとえば「公然猥褻」をめぐる問題がいい例だろう。猥褻の定義もまた明確でないまま、そこでは決まって表現の自由が、性の自由が、争われている。それは自由あるいは不自由が猥褻というものに拘束されているからで
ある。猥褻は「法的安全の意識を脅かすような」みだらな言動または動作ですら、犯罪の対象となる。意識で
すら、刺激、羞恥心、道義観念そのどれもが猥褻のみの要件ではなく表現の要件とも重なっているのである。

近代以降の「表現」の領域は、言葉や形あるいは身体をもって自らの意志を示そうとするものたちの先端としてあった。だがいまでは表現は創造は感性と同じくまた生活と同等であり、だれのものでもあり、だれもが手にする自由と同義となっている。だから、ある表現の自由はまったく別の表現によって否定され抗議を受ける余地があるのだ。なにも表現の自由と不自由は、アーティストのみの特権ではない。観客も市民もそして抗議するものも、あらゆる表現の自由を主張する。むろんどんな他者をも害さないという法的制約の範囲内でのことだが。

つまるところ「表現の自由」を問題にしても、あらゆる対立がそうであるように平行線のままだろう。
では、表現に拘束されない〈表現〉はどう可能なのか。猥褻が「法的安全の意識を脅かすような」ものとしてもあるのなら、表現というものは脅かすのではなく、観客の市民の「意識」を揺さぶるような〈芸術〉として、
どこかで自ら表現を超え出て行く必要がある。

ハンス・ハーケが言うように「すべての芸術は常に政治的」(『自由と保障』)だとしても、芸術には、政治を経済を超えて発現するための要件が求められるはずだ。それは芸術にしかない痛切な必要に充たされているかどうかだ。つまり、〈芸術のみが持つ痛切さ〉を作品というものが有しているかどうかである。

「芸術にとって本質的な社会的関係とは、芸術作品のうちに社会が内在していることであって、社会のうちに
芸術が内在していることではない」(『美の理論』)と、いみじくもアドルノは言っている。それに反し今回の「あいちトリエンナーレ」はアートというものがまさに社会の〈うちに〉内在していることの逆説的証しとなってしまった。社会からの不当な「抗議」に対し、私たちはそれを多くの市民と共に不当なものとして跳ね返す力へと結集することができないでいる。〈芸術のみが持つ痛切さ〉が、ここでも作品に問われているのだ。

いつもアートは、観客や市民、社会と「つながる」ことをうたってきたではないか。「つながる」とはどういうことなのか。僕にはアートの無力さばかりが目についた「芸術祭」となった。「問題」はつねに孕まれている。「伝わる」ということの困難さ。コミュニケーションは、芸術にとって果たして可能なのか。社会的なもたれ合いが表現というものをどう害するのか。いずれにしても不変の課題はいまだ残されたままというべきか。

2019/8/10 (土)

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美術折々_224

(続)ただそこでも、自由の定義が問われている

けっきょくこの国の8月に象徴される「平和への祈り」の前では、みな沈黙を強いられるのだろうか。
この74年間の〈敗戦後〉とは、こういうことだったのか。沈黙への従属への圧力だったのかしら。

そんなこの国は、ほんとうに平和なのだろうか、いや平和ではないから「祈る」のだろうか。今回の不当な
「抗議の声」とはいったいどこから来たのだろう。そこの「芸術」なんてどうでもいいさ、たかが芸術の祭り
だろ、この国の「平和」を乱すものこそ許せないという感情の排他的突出がそこにある。そしてだれもがその「抗議」にたやすく屈してしまう連鎖。この問題は、「あいちトリエンナーレ2019」のすべての作品を離れ、神戸のシンポジウムまで蹴散らし、表現への問いをもすっ飛ばして、只々「平和への祈り」に収斂していく。

5日、香港の政府への抗議デモでは148人が拘束され、ゼネストには35万人が参加しているという。
これに比して日本の無抵抗な平和は自滅以外の何ものでもない。

かつてスタンダールは「美は、幸福の約束にすぎない」と言った。たとえばここで、「美」を「平和」と言い換えてみてはどうだろう。「平和は、幸福の約束にすぎない」と。さらにアドルノは「芸術は幸福の約束であるが、その約束は守られることがない」と断言している。

守られることがない約束。それを幸福といい平和といい、芸術というなら。もし芸術という表現に「自由」が
あるなら。それは守られることがない、ということになるだろう。ただし、幸福とも平和とも芸術とも私たちは〈契約〉を交わした訳ではない。だから期待は、祈りは、約束は、簡単に裏切られるのである。

もう一度いっておこう。幸福への平和への祈りにではなく、表現に拘束されることのない〈自由〉を、
表現〈からの〉自由を。そして守られることがない〈約束〉に、祝杯を。

2019/8/4 (日)

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美術折々_223

ただそこでも、自由の定義が問われている

8月1日に開幕したばかりの「あいちトリエンナーレ2019」で、いま問題となっている企画展『表現の不自由展・その後』。なぜここまで問題は大きくなったのだろう。

主催する実行委員会の会長である大村秀章・愛知県知事は、記者会見で展示中止の理由を「テロや脅迫ともとれる抗議があり、安全な運営が危ぶまれる状況だ」と述べたという。また当の実行委員会の会長代行でもある河村たかし・名古屋市長は、大村県知事に抗議文を出し展示の中止を要求した。これは本末転倒ではないのか。ここでは他人事のように語られているが、いったい当事者とはだれなのか。実行委員会の会長や会長代行こそが共同の責任においてそれら不当な「抗議」に対し、まず釈明すべきではなかったのか。

『表現の不自由展・その後』は、トリエンナーレの参加作家としての「表現の不自由展実行委員会」による企画で、「表現の自由の現状を問うという」展示の主旨を、その内容も含め予め行政の各段階において確認を取り、すべて承認を経て展示されたものである。つまり主催者の代表、代行であるその行政の長たちが、開幕3日も経たない内に、こぞって展示の中止を早々に決めるという自己保存ともいうべきその責任放棄は、前代未聞だろう。なにも突然「行政の立場を超えた展示」(河村たかし市長:談)が出現したのではない。この展示のためのすべての手続きが、時間をかけ行政の確認と承認を経た結果、展示に何ら問題なしということで実現したのではなかったのか。それなくして展示許可など出るはずはないだろう。

「わたしたちはどんなテロや暴力にも屈しない」といつも事あるごとに言ってきたのは、一体だれだったのか。平和国家を謳う日本。それは、これを支持する多くの国民であり市民であり、どこにでもいる私やあなたではなかったのか。原爆、戦争は反対だが、政治や経済は貿易戦争は、また別問題とでもいうのか。じゃあ、無力で虚弱な芸術文化なら問題にしてもよい対象なのか。もちろん今回の件は、アートと行政そして民間を含めた国家のもたれ合いが地域活性化の手法としてすっかり日本国内で一般化した中において、芸術祭という名の下での平和の部分的破裂なのだが。

この問題に対して3日、「表現の不自由展実行委員会」は、この「企画を、主催者自らが放棄して弾圧することは、歴史的暴挙と言わざるを得ません。戦後最大の検閲事件となることでしょう」との声明を出した。今回のトリエンナーレの芸術監督である津田大介は「日本の表現の自由が後退したかもしれない」と語ったという。

しかし「自由」は後退も前進もしないのだ。ただそこで自由の定義が問われているだけである。日本の憲法21条には「表現の自由は、これを保障する」と明記されている。だがそれはどこまでも表現〈の〉自由あるいは不自由の範囲内でしかない。そうではなく私たちは、すべての表現〈からの〉自由を、つまり表現の「内に」自由を求めるのではなく、表現に拘束されることのない〈自由〉を獲得できるかどうかなのだ。少なくとも「芸術」はそのような表現を〈超え出る〉自由を、結晶化できる可能性と不可能性を秘めているのではないだろうか。

2019/8/1 (木)

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美術折々_222

青い飴色のムチと夏

それは私たちの身体からだけでなく、その荒涼とした風景からも汗が噴き出していた。
塩の結晶が街のあちこちに、まとわり付くようにできている。ここはデスバレーか。
日々は猛暑で、それはもう亜熱帯化した日本といっても言い過ぎではないだろう。

殺伐とした人身に、これでもかと自然は追い討ちをかける。もちろんこの自然とは
私たちがつくり出したものだし。気象変動などと他人事のように語ってはうなずく
長閑な夏ここにありや。

高度に偽装され欺瞞化したこのシステムを生きるには、それなりの覚悟が必要だ。
それはあらゆる甘言が、もてなしがサービスが、特典が、期待が〈税込〉であるということからも。
透明性を担保されたものほどあやしいものはない。疑い深い人間ほど、こころは清らかで。
だからこの社会からは、すぐに弾かれ疎まれるものとしての私たち。

さあ明日も亜熱帯の都市へ出ていこう。噴き出る荒涼とした汗を舐めながら。
虚偽と負担の、五倍化の要求に挫けそうな私たちを、どうか救いたまえ青い飴色のムチと夏よ。


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