元村正信の美術折々/2019-08-16

明日なき画廊|アートスペース貘

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美術折々_225

残された不変の課題

前回、僕はアドルノの「芸術は幸福の約束であるが、その約束は守られることがない」という言葉を引きそれを踏まえた上で、もし芸術という表現に「自由」があるなら、それは守られることがない、といった。
ではなぜ自由が、守られることはないのか。それはいまだ「自由」というものが定義されず、確定してる訳ではないからだ。確定していない自由を、いくら表現〈の〉自由をあるいは不自由を主張したとしても、自由は表現の内に曖昧なまま残されているからである。だから自由はたやすく破られる。

今回の「あいちトリエンナーレ」の企画アドバイザーでもあった東浩紀が、辞任を表明した8月14日付の自身のツイッターの中で「海外のアーティストは表現の自由を訴えている」、「表現の自由を守らない美術展を支持するアーティストはいません」と語っている。僕に言わせれば、守るべき「自由」が先にあるのではない。表現の自由を「守る」のではなく、自由はいかにして表現から守られるのか、あるいは守られないのか。そして表現〈からの〉自由は、いかに獲得されるかなのだ。

いや何も東浩紀ひとりが「表現の自由を守る」と言っているのではない。多くのひとがそう主張するはずだ。
だがいくら表現の自由を守ると言ったとしても、確定していない「表現の自由」など、そもそも守りようがないのだ。自由は表現の前提としてそこにあらかじめあるのではない。だから「あいちトリエンナーレ2019」の中の企画「表現の不自由展・その後」に向けられたあらゆる不当な「抗議」も、曖昧な「表現の自由」という脆弱さに対しての攻撃であり表現であったのだ。

たとえば「公然猥褻」をめぐる問題がいい例だろう。猥褻の定義もまた明確でないまま、そこでは決まって表現の自由が、性の自由が、争われている。それは自由あるいは不自由が猥褻というものに拘束されているからで
ある。猥褻は「法的安全の意識を脅かすような」みだらな言動または動作ですら、犯罪の対象となる。意識で
すら、刺激、羞恥心、道義観念そのどれもが猥褻のみの要件ではなく表現の要件とも重なっているのである。

近代以降の「表現」の領域は、言葉や形あるいは身体をもって自らの意志を示そうとするものたちの先端としてあった。だがいまでは表現は創造は感性と同じくまた生活と同等であり、だれのものでもあり、だれもが手にする自由と同義となっている。だから、ある表現の自由はまったく別の表現によって否定され抗議を受ける余地があるのだ。なにも表現の自由と不自由は、アーティストのみの特権ではない。観客も市民もそして抗議するものも、あらゆる表現の自由を主張する。むろんどんな他者をも害さないという法的制約の範囲内でのことだが。

つまるところ「表現の自由」を問題にしても、あらゆる対立がそうであるように平行線のままだろう。
では、表現に拘束されない〈表現〉はどう可能なのか。猥褻が「法的安全の意識を脅かすような」ものとしてもあるのなら、表現というものは脅かすのではなく、観客の市民の「意識」を揺さぶるような〈芸術〉として、
どこかで自ら表現を超え出て行く必要がある。

ハンス・ハーケが言うように「すべての芸術は常に政治的」(『自由と保障』)だとしても、芸術には、政治を経済を超えて発現するための要件が求められるはずだ。それは芸術にしかない痛切な必要に充たされているかどうかだ。つまり、〈芸術のみが持つ痛切さ〉を作品というものが有しているかどうかである。

「芸術にとって本質的な社会的関係とは、芸術作品のうちに社会が内在していることであって、社会のうちに
芸術が内在していることではない」(『美の理論』)と、いみじくもアドルノは言っている。それに反し今回の「あいちトリエンナーレ」はアートというものがまさに社会の〈うちに〉内在していることの逆説的証しとなってしまった。社会からの不当な「抗議」に対し、私たちはそれを多くの市民と共に不当なものとして跳ね返す力へと結集することができないでいる。〈芸術のみが持つ痛切さ〉が、ここでも作品に問われているのだ。

いつもアートは、観客や市民、社会と「つながる」ことをうたってきたではないか。「つながる」とはどういうことなのか。僕にはアートの無力さばかりが目についた「芸術祭」となった。「問題」はつねに孕まれている。「伝わる」ということの困難さ。コミュニケーションは、芸術にとって果たして可能なのか。社会的なもたれ合いが表現というものをどう害するのか。いずれにしても不変の課題はいまだ残されたままというべきか。

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