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美術折々_72
あの扉の向こう
「屋根裏貘」から覗いた、「アートスペース貘」。
天神3丁目の交差点から北へすぐ。
急な階段を上って二階の扉を開くと、左がギャラリー、右がカフェだ。
どちらも「貘」である。たがいに支え合って、もうすぐ40周年を迎える。
それは闇とも光ともつかないものの坩堝。
おおくの歓喜や悲哀、そして若さという傲慢あるいは失意を刻んだ場所でもある。
そんな若者たちも、少しはおとなというものに、なれたのだろうか。
僕はいまもここにいる。
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美術折々_71
結果ではなく、「ながらえつづける」ということ
かつてニーチェは言ってくれた。
「人間の価値は、その人間の有用性のうちにあるのではない。
なぜなら、おのれが役立つことのできるひとが誰ひとりいないときですら、
その人間がながらえつづけるであろうからである」(権力への意志[下]、ちくま学芸文庫)
さらに、こうもいう。
「人間の価値を、その人間がどれほど他人にとって有用であるとか値するとか有害であるかとか
ということにしたがって評価すること、これは芸術作品がそれがひきおこす結果に応じて評価するのと、
まったく同じことである」。
ニーチェは、伝達することや有用性ばかりが支配するこの世界を悲嘆しながら、それでもあきらめることは
なかった。じつは、人間の価値も芸術の価値も、何かのために、あるいは他者の役に立つことがない時でさえ、
たったおのれ独り、それ自体でしかない時でさえ、ほんとうの価値というものは「ながらえつづける」のだと言っている。
どうやら私たちは、「作品」そのものよりも「それがひきおこす結果」、つまり他者の権威や評判、数量や
規模、人気や不人気といったものに敏感に反応する生き物のようである。
かつてなかった芸術、これからありうるかも知れない芸術とは、「結果に応じて評価」される芸術では
ないはずだ。
「ながらえつづける」というのは、ただ漠然と同調し現状肯定的に生きていることではない。
誰ひとりいないときですら、存(なが)らう、存在し続けてあるということだ。
やはり僕は、抗(あらが)い続けて生きることだと、解釈したい。
だから、僕にとっての作品も、そうでありたい。
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美術折々_70
個展前夜はいつも
先程、個展作品の梱包と準備を終えた。あとは夕方からのセッティングを残すのみだ。
作品のサイズや展示方法は、アートスペース貘のギャラリー空間を考えながら毎回決めるようにしている。
毎年すこしづつ変化を試みながら。内容の方は、飛躍もあれば、相変わらずと言える部分もあるのかも
知れない。
作家というのは、若い内から早々と自分のスタイルを確立してしまうひともいれば、僕のように常に
「試行」を繰り返して、見るひとをいつも戸惑わせている作家もいるのだ。
まあ、いずれにしろ明日オープニングを迎える。ながかった僕の中の夏もやっとおわる。
元村正信[その逆説的盲目]は、10月17日(月)〜10月30日(日)まで。
午前11時〜午後8時(最終日のみ午後5時迄)。
ご覧いただければ、幸いです。
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美術折々_69
無数の孤立
貘の個展まであと一週間余り。いつの間にか、もう十月だ。
思えば長い間、福岡で制作を続け発表を繰り返してきた。初めての個展からすでに41年が過ぎた。
20代の始め「現代美術」に触れ、その後の崩壊も見て来た。それももう、20年も前のことである。
ずっといつもひとりだったが、「貘」があったし、いつも誰かが見てくれていた。そして今も誰かがいる。
それは見知らぬひとかもしれないし、どこか遠いところで同じようなことを感じ、考えているひとかも
しれない。
制作を続けるということは、そういうことだと思っている。
孤立など、どこにでもある。いやそういう孤立が無数にあるのだ。
だとすれば、そのことは「孤立」ではないと言えるだろう。
私たちは、はたして見えているのか。気づいているのだろうか。