元村正信の美術折々-2015-07

明日なき画廊|アートスペース貘

2015/7/29 (水)

美術折々_17
 

あるはずの 「境界」 、ないはずの 「境界」
                                     
                        
先日、ある若い画家が自身のブログで、同じ世代の別の若い画家の、絵画による個展の感想を書いていた。
かなり鋭く的確な指摘で、注意深く読んだ。

そこでは、「絵画とイラストの違い」について触れながら、その個展に出品された作家の作品が、ほとんど
「イラスト」に見えたというもの。それは、なにもイラストであることを揶揄したり皮肉っている訳ではなく、そのようにしか見えなかったと言っているだけだ。

そう指摘した若い画家自身、「イラストと絵画」の違いは明確にあるが、「この感覚的な違いをいつまで経っても言語化できないでいますが」と、控えめに語っている。また、同じブログの中で「アートとデザインの境界」という似たような問題を引き合いに出して触れてもいた。

じつは僕が注視するのは、「イラストと絵画の違い」、「アートとデザインの境界」という以上に、それらの 〈境界なき広がり〉のことなのだ。そこには、イラストの絵画化と、絵画のイラスト化。あるいはデザインのアート化と、アートのデザイン化とでもいうべき事態が起こっているのではないか、ということだ。急激に進行するこれらの〈無限接近〉は一体何を意味するのだろう。

その身近かな例が、8月2日まで佐賀市の佐賀県立美術館で開かれている、
佐賀市出身のプロダクト・デザイナー吉岡徳仁による 「吉岡徳仁展 — トルネード」であろう。この個展は1983年開館の同館が今春リニューアルしたのを記念し、その改装・監修を手がけたデザイナー吉岡徳仁自身によるものだ。

半透明のストローを大量に使ったその作品は、まさに「インスタレーション」であり、「アート」でありまた「デザイン」であり、美術館に出現した巨大な「ウインドーディスプレイ」だと言うこともできる。ここにあるのは、〈境界〉を巡る超え難さや、悩ましさあるいは曖昧さといったものではなく、すでに 「表現」 には 〈境界がない〉 ということを前提にして始めて、この作品は成り立っているということではないだろうか。

それはちょうど、たやすく 国境を超えて行くグローバルな「資本」と、それを容認しながら、一方では、
かたくなに国境を、領土を、主張する「国家」との関係にも似てはいないだろうか。既存のさまざまな領域を
意識させながら、そのいずれでもない、ニュートラルで無国籍な〈空間〉を吉岡の作品は実現しているようでもある。〈不在の芸術〉とでもいうのだろうか。まさにこれを「アート」といえばアートであり、逆に「アートではない」といえばアートではない。どちらもありの、むしろそんな自由度を許容するひとつの巨大な「クリエイティブ・ワーク」だと言えるだろう。

だがそこには、これからあろうとする 〈美術〉 への問いかけは微塵もない。逆説的にではあるが、この作品はそこに不在の〈美術〉の現在への批判と同時に、それを取り巻く 〈境界〉上の自由な流動の空間へと、私たちを心地よく誘ってくれている。

そして、もうひとつそんな 〈境界〉 を考えさせてくれる展覧会が、
8月23日まで福岡市美術館 2階 企画展示室で開かれている 「彫刻/人形」 だ。

同館所蔵の、高村光雲、山崎朝雲、荻原守衛といった日本近代の写実的「彫刻」作品に加え、福岡の具象彫刻家や若手作家(彫刻から博多人形まで)の作品、さらにキャラクター、人体模型、そして今回の「目玉」ともいえる蝋人形「嬉野弁財天」までを一堂に並べたもの。学芸員の山口洋三によると、「決して『彫刻』とは呼べない『人形』の魅力を、当館所蔵の『彫刻』と比較してみることで紹介したい」(『エスプラナード』180号.2015年7月)とする、小規模ながら意欲的な企画である。

ここでは 「彫刻/人形」 というように、異なる二つの表現を対比的に捉えてはいるが、作品はいずれも、少なくとも「写実的」であるという共通項があるようだ。また彫刻と人形という、いわば〈異種交流〉の赴きを持ちながら、それがそのまま既存の「芸術」への懐疑と、新たな〈視点〉 を見る者にうながしているようにも思われる。

ただそこには、そのあいだの領域ともとれる、つまり人形とも彫刻とも取れなくもない、フィギュア的な要素のつよい造型物も多々あること。だから 「人形の魅力」 というより、見る者にとってその全体から受ける印象は、彫刻と人形、あるいはそのどちらとも取れるもの、の混在によって見えてくる 「困惑の魅力」 とでもいうべきものがあるのかも知れない。

ここで 「困惑」 というのは、先に言った〈境界〉を巡る超え難さや、悩ましさあるいは曖昧さのことである。だがそれでも、見る者の視線はたやすく 制度や 〈境界〉 を越えてしまう。つまり二重の困惑の経験がここにはあるのだ。

おそらく、彫刻と人形は違うと、多くは思うだろう。確かに異なるものだ。しかし、ここでの並置からはその比較よりも、なぜ彫刻は人形のようであり、なぜ人形は彫刻のようなのか、という互いの〈無限接近〉への、あるはずの境界をまたいでしまった私たちの、〈視線の膨らみ〉に気づかされるのだ。過剰な戸惑い、とでも言えばいいのだろうか。

〈境界〉はあるにしてもどのようにあり、〈境界〉がないにしてもどのようにないのか、という問いは、ここでも人形の彫刻化と、彫刻の人形化を、〈見るということ〉を通して考えることができる。それは当の作品だけでなく、見る者に対して示される新たな経験が、〈境界なき広がり〉として生まれているのではないだろうか。
すでに 〈リアル〉 であることも、なんらその通りの 〈現実〉ではなく、むしろ 〈ないはずのものがそこに在る〉 という、腑に落ちない戸惑いでもあるのだ。

ただことわっておくが、僕は 〈表現〉 というものに、もはやジャンルも領域もカテゴリーも存在しない、と考えている訳ではない。いやむしろ、芸術の表現自体の、『主格性』 こそが、問い詰められてもいると、考えて
いる。

「美術」もまた、〈境界なき広がり〉の趨勢に抗いながら、美術じしんによって、たえず 〈超え出ていく 美術〉 の内実が、作品が、問われているのではないかと思う。

(2015.07.29)

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2015/7/4 (土)

美術折々_16
 

「わかりえない」ということ_(1)

先月、6月29日(月曜日)付の日本経済新聞朝刊文化面。
「『孫たちの戦後70年』 創作・研究の現場から」 という連載が目に留まった。

ひと口に戦争体験者の孫たちの世代(創作・研究現場にいる)といっても、おそらく上は現在50歳位から下は20歳位までの幅はあると思われる。いずれにしても、その多くは「戦争を知らない子供たち」の世代である「親」から生まれた「子」の世代のことである。

「戦争体験」の、いっさいの記憶も、風化も、そしてその継承も、いったい何と闘い、抗ってきたのだろうか、とあらためて思う。厳として闘い、抗っている人々が現にいるというのに。〈戦争体験〉というものが、たんに継承としての精神の順逆や尊い犠牲の上に築かれた〈戦争遺産〉に収斂されるのではなく、そんな体験が〈二度とあってはならない〉と誰もが叫んでいながら、その〈声〉が、なぜ今のわたしたちの日常に〈生かされて〉はいないのか。戦争体験を受け継ぐとは、そんなものだったのか。

わたしたちの今の〈日常の体験〉とは、その〈戦争〉とどう違い、あるいは違わず、つながっているのだろう。

日本の、戦後という空間の「成長」、その裏返しとしての凄まじいまでの忘却と空洞化。その無力を噛みしめ
ながら、グローバルな「富の偏在」 がもたらす、快楽と格差の皮相な程の、この充実振りはなんだろう。

やがて、この国の「戦争体験者」もほとんど途絶える時が来るだろう。それを仮に『戦後100年』 と呼ぶに
せよ。そのとき、未来のわたしたちは〈戦争体験の不可能性〉 に直面することになる。そんな時代の中で、
親と子、その「孫たち」は一体どう〈生きよう〉としているのだろうか。

長い前置きになってしまった。

さてその連載1回目に、沖縄を拠点に活動する気鋭の美術家・山城知佳子(1976年生まれ)が紹介されて
いた。

山城知佳子といえば、福岡では2年前の、2013年 福岡アジア美術館交流ギャラリーでの、九大AQAプロジェクトによる現代美術展「わたしの街の知らないところ − シンガポールと日本」に出品した映像と写真作品を見られた方もいるだろう。

今回、日経新聞の記事は、彼女の2009年の映像作品『あなたの声は私の喉を通った』 に触れながら、
山城知佳子の試行とその作品を手がかりに、孫たちの世代にとって『戦後70年』はどう受け留められているのかを、紹介しようとするものだ。

僕が関心を持ったのは、なにも山城が沖縄で生まれ育ち、そして今も沖縄を拠点に「沖縄」を通して活動して
いるからではない。

むろんそのことは、いくらでも語り語られてよいことではある。だがそれよりも、彼女がこれまで、「耳にたこができるようだった」と繰り返し聞かされてきた「戦争体験談」を踏まえてもなお、2009年の『あなたのはー』の制作時に、体験を語った高齢男性から受け取ったものは、「どこか遠い場所に行ってしまったようで、『自分にはこの人の体験を決して共有できない』 と思った」ということだった。

この『決して共有できない』という感覚は、かなり重いことなのではないだろうか。現在のコミュニケーション偏重の、盛んな異文化理解や異質な相手ともどこかで分り合える、そして伝わること、伝えようとすることを
重視する「表現」のありようとはまったく 逆のベクトルが、ここにはあるのではないか。

他者の記憶を継承することの 〈圧倒的な困難〉 を前提に山城は言う。「どんなに感情が震えても、わかったとはいえない」。「わかりえないものに対して、わかろうとする努力を捨てないこと」。そうしてさらに「言葉によって自分のメンタルを書き換えていこうと思う」と。

ちなみに、この連載の5回目(7月3日付)で、劇作家の古川健(36)が自らの演劇の創作について、「他人の経験は究極的には分らないのかもしれない。でもそこで突き放しては、人と人の間には何も生まれないのではないか」と語っている。

この両者には「わかろうとする」ことよりも、「わかりえないもの」に対しての接近の仕方。そこで生じる自らの動揺とそこからしか切り開かれようのない 〈伝達への回路〉が、自覚されてはいないだろうか。

僕は当然のように、ジョルジュ・バタイユのあの言葉、 「伝達不可能なもののみが、伝達するに価する」 を
ここでも反芻する。さらにまた、死を 「経験できないものの経験」 「不可能な経験」としたバタイユの言葉はそのまま、私たちが「戦争体験」の〈声〉を聞きながら、他者のひとりの〈死〉にさえ、決して近づけない圧倒的な困難さ、そのものでもある。

それでも山城知佳子の作品に通奏低音のように響き渡る、唄、声、そして肉体の、さらにそれらが錯綜する美しい残響にさえ、この「わかりえない」ということの核心を見逃し、あるいは聞き逃しては、何一つそこから始まりはしない、ということ。

山城知佳子の、映像は、言葉は、身振りは、そういう困難きわまる 〈わかりえない伝言の試み〉のように、
僕には思えるのだ。

(2015.07.04)







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