元村正信の美術折々-2015-06

明日なき画廊|アートスペース貘

2015/6/26 (金)

美術折々_15
 

山本豊子 「fog_signal」

アートスペース貘では6年振りの個展。

山本豊子の作品をはじめて貘で見てから17年が経つ。福岡の他のギャラリーでの個展を含めこれまで7回ほど
見たことになる。

褐色を含めほぼモノクロームといってもよいそれらの作品は、どれも銅版や紙版、シルクといった版画をベースにしながら、ドローイングを拡張させたような「絵画」でもあり、時に大きな木箱に流し込み固めた石鹸や、
白いバスタブに鉄の四肢を付けたもの。あるいは木の机と椅子、金属缶、さらに映像、といった様々な素材を
用いている。いずれも「版」にとどまらない、物質性のつよい作品だ。

ちなみにこれまでの個展のタイトルをいくつか挙げれば、「達磨屋と逃亡癖」、「寝床で水牛が膝をうつ訳」、「賽の胡桃」、「天秤の山羊は巡る」、「シダ胞子の洋灰」、「起源の運搬」、「宇宙時代の独身主義、さえも」 などなど…。どれも、まるで難解でならす詩集のタイトルのようだ。

いやいやこんなことで、見る者はひるむ訳にはゆかない。むしろ山本豊子の作品は、タイトルに反し、すこぶるストレートだと思う。黒い漆黒のベタとそれにからまり縦横に奔る無数の鋭い傷。それらは自らの意志によって描いた線だけではなく、ゴミや汚れ、予期せぬ斑点、ノイズさえすべて画面に取り込んでいるようにも見えなくはない。

他の「オブジェ」だってそうだ。じつにシンプル。作家が企図したもの、コンセプトが、おそらくその通りに(もちろん制作上の格闘はあっても)、私たちに提示されていると言ってよいだろう。逆にいえば、見ることの破綻や嫌悪を起こさせない作品ともいえる。

それでも山本豊子の、この「寓意」に充ちたモノクロームの世界は、飽きることがない。
僕は以前から彼女の作品を見ながら、あのジュール・ヴェルヌの『海底2万里』の旅を思うのだった。あちこちと世界の果てを旅しながら、そこでの見聞、異聞や驚き、あるいは記録と伝承から触発され、ときに空想しつつ生まれてきたであろう山本豊子の「寓話的」世界の、そのどこからか聞こえてくる見知らぬ人たちの声。

この作家が、どのようなことを思い、何を考え、制作しているのかは知らないし、直接尋ねてもいない。
だが僕なりに解釈すれば、表層のみが露出し消費されてやまないこの時代に、おそらく山本豊子は、いま、ここにはないけれど、消え去ってしまった人間の営み、遺物や「物語の抜け殻」を、かつてあった古層を剥ぐようにして 〈伝播〉の跡形をすくい取り、それを絵の中に刷り込み、オブジェをかりて埋め込もうとしているのでは
ないだろうか。

これは、物語の再生でも記憶でもない。 なぜ私たちはかつて 〈そのようにあったのか〉 と問う作家の肉声にも聞こえるし、それはまた、私たちがいま 〈どのように生きようとしているのか〉と、自問することとも
重なっているように思えるのだ。
                                    同展は7月5日(日)まで。

同じく 7月5日(日)まで 福岡市南区平和1-2-23 森山ビル1F の
ギャラリー M.A.P でも 版画とドローイングによる個展_山本豊子「カモメと腕木のメソッド」を開催中。
西鉄平尾駅から筑肥新道を小笹方面へ徒歩で約8分。合わせて見られてはいかがだろう。

http://gallerymap.jp

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2015/6/15 (月)

美術折々_14
 

今田淳子 個展

それは磔刑(たっけい)の十字架にさらされた人の化身か、あるいはコウモリの翼のようなものに絡まり咲こうとする花々。でなくば、子宮の告白としての血であり、そこから生まれ出ようとするものの息吹なのか。
ここには、西洋からの疎外と東洋の果てとのはざまで、長い異国での生活という時間のなかで、せめられ問われつづけた作家の、論理や理性に収まり切れない、女性の〈情欲〉といったものが極めて象徴的に吐露されては
いないだろうか。

画廊の四方の壁のひとつだけを使い、天井近くの壁に張り出し、下へ床へと流れ出すようにしつらえた黒い皮や赤い紙、布、糸、銅線といった様々な素材が織りなす、まるで神話から抜け出たかのようなオブジェからは、
習俗、血縁、その息苦しさや煩わしさゆえに、わたしたちがどこかで置き去りにしたままの〈情念〉が、
なまめかしく再来したかのようにも見えた。

じつは僕がこの20年以上、どんな作品(絵画や彫刻を含め、物の配置やそれらが置かれた空間との関係性)を
語るにせよ、さまざまな素材に沿いながらも、「インスタレーション」 という語をほとんど使わずに、むしろ
慎重に避けながら、場合によっては敢えて 「オブジェ」という古い言葉を選んで使っているのにも、それなりの理由があるからだ。

今田淳子の作品もDMの表記にしたがって言うのなら、新作の 「INSTALLATION」 というべきかも知れない。

しかし何度でもいうが、 「INSTALLATION」 と「インスタレーション」 は、異なるのだ。その差異を、
同一のものとして語るには無理がある。その齟齬を無視して粗雑に、一括りに“インスタレーション”と片付け
たくはないからなのだ。そういう平板な語りこそ、日本の、ものみな「アート化」する現在を、無批判に肯定
することにならないだろうか。

今回の今田淳子の 「INSTALLATION」 を、僕は「わたしたちがどこかで置き去りにしたままの〈情念〉」と言ったが、忘れさり葬り去った〈土俗〉の匂いさえ残存させる彼女の仕事は、わたしたちを囲い込む均質で
空虚な「アート」への批判にもなりえていると思うのだが、いかがだろう。
                                                                                     同展は6月21日(日)まで。

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2015/6/10 (水)

美術折々_13
 

梅雨のほとりにて

若かった頃は、いつも春先になると言いようのない不安に戸惑い、その日通う道さえも心細く思ったものだ。
それは少年少女の、不安定な心もようだけでなく、ものみな芽吹くようにふくらみ始めてまだ落ち着かない、
華奢でやわらかな体つきそのものから来るものだったのかも知れない。

やっと二十歳を過ぎ、ちょうどそんな不安と入れ替わるように、美術家として個展をするようになってから何度となく見続けた強迫的な夢がある。それは、個展の初日を迎えたというのに、作品が全く出来上がっていないという夢である。何もないのだ。喉もとまで追いつめられいつも決まって、そこではっと目を覚ました。

そうしながら何度も個展や発表の場数を重ねるうちに、そういう強迫的な夢のようなものもいつしか遠のいていった。

よく、夢うつつというけれど、いまだってどこまでが夢で、何が現実なのかは本当のところ分りはしない。
「夢が現実になった」という話しはどこかで聞くことがある。だが現実というものが、夢ではない証しなど
ほんとうにあるのだろうか。

一見当たり前のように「ある」と思い込んでいる目の前の現実というものが、《 けして触れることが出来ない
現実 》であることを、わたしたちはそれを敢えて遠ざけることによって( むろんそこに多くの錯誤や欺瞞、
虚偽は付け込むのだが )かろうじて現実(あるいは夢)というものを生きて行くことができる。

だから、夢と現実が、ぴったりと重なりあうことはないはずなのだ。なぜならそのズレによって、その裂け目や溝の深さによって、わたしたちは、日々というこの苦痛と、儚さと、快感が、見さかいもなく交じり合った日常を、病みながらも、しのぎ、超えて行くこともできるのだから。

初夏のあと、梅雨のほとり。穏やかな青灰色の水面の果てには、地とも空ともつかない無限の余白がどこまでもひろがっている。
(2015.06.10)

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