元村正信の美術折々/2015-06-15

明日なき画廊|アートスペース貘

美術折々_14
 

今田淳子 個展

それは磔刑(たっけい)の十字架にさらされた人の化身か、あるいはコウモリの翼のようなものに絡まり咲こうとする花々。でなくば、子宮の告白としての血であり、そこから生まれ出ようとするものの息吹なのか。
ここには、西洋からの疎外と東洋の果てとのはざまで、長い異国での生活という時間のなかで、せめられ問われつづけた作家の、論理や理性に収まり切れない、女性の〈情欲〉といったものが極めて象徴的に吐露されては
いないだろうか。

画廊の四方の壁のひとつだけを使い、天井近くの壁に張り出し、下へ床へと流れ出すようにしつらえた黒い皮や赤い紙、布、糸、銅線といった様々な素材が織りなす、まるで神話から抜け出たかのようなオブジェからは、
習俗、血縁、その息苦しさや煩わしさゆえに、わたしたちがどこかで置き去りにしたままの〈情念〉が、
なまめかしく再来したかのようにも見えた。

じつは僕がこの20年以上、どんな作品(絵画や彫刻を含め、物の配置やそれらが置かれた空間との関係性)を
語るにせよ、さまざまな素材に沿いながらも、「インスタレーション」 という語をほとんど使わずに、むしろ
慎重に避けながら、場合によっては敢えて 「オブジェ」という古い言葉を選んで使っているのにも、それなりの理由があるからだ。

今田淳子の作品もDMの表記にしたがって言うのなら、新作の 「INSTALLATION」 というべきかも知れない。

しかし何度でもいうが、 「INSTALLATION」 と「インスタレーション」 は、異なるのだ。その差異を、
同一のものとして語るには無理がある。その齟齬を無視して粗雑に、一括りに“インスタレーション”と片付け
たくはないからなのだ。そういう平板な語りこそ、日本の、ものみな「アート化」する現在を、無批判に肯定
することにならないだろうか。

今回の今田淳子の 「INSTALLATION」 を、僕は「わたしたちがどこかで置き去りにしたままの〈情念〉」と言ったが、忘れさり葬り去った〈土俗〉の匂いさえ残存させる彼女の仕事は、わたしたちを囲い込む均質で
空虚な「アート」への批判にもなりえていると思うのだが、いかがだろう。
                                                                                     同展は6月21日(日)まで。

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