元村正信の美術折々-2020-11

明日なき画廊|アートスペース貘

2020/11/23 (月)

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美術折々_306

非アート化する芸術のゆくえを


11月22日までアートスペース貘で開かれていた「ケモノ美術作家」を自称する、堀本達矢の Meet the KEMONO - 興味編 - 。これについては14日付の「アートスペース走り書き_09」で少し触れた。

この個展を見るために、僕はあらかじめ twitter上で未知の彼をフォローした。貘の個展の直前まで大阪・阪急梅田百貨店のコンコースウィンドウに展示されていた、彼の白い「ケモノ」へのファンたちのtwitterでの反響の数はすごかった。今回の貘での個展でもそれに応えるツイッターやギャラリーの感想を見たり読んだりしていると、彼のファンというもののある偏りが半端ではないことが分かる。

それは何かというと。その多くの反応がいわゆる美術や芸術、つまり「アート」というものに必ずしも関心を持ってはいないということだ。彼らファンのアカウントを見るとそのほとんどが、漫画・アニメ、ゲームやキャラクター・着ぐるみ、獣人・ケモノといったいわゆる擬人化系のサブカル好きの人たちといってもいいだろう。

その感じ方を見てみると。うっとりする、神々しい、見飽きない、憧れるといった感情移入がストレートで、まるでそこに没入するかのようなのだ。だから小品・作品集を含め売れるのもよく分かる。ここではすでにアートとサブカルというものの区別も違いも境界もない。彼らにとってはフィクションとしてのサブカルが、現実であり生活そのものとなっているようだ。

このことは裏を返せば1990年代後半以降の「日本のアート」は、ポケモンを始めとして村上隆や奈良美智たちの影響が、アート以外の関心事つまり漫画やアニメ、ゲーム世界の嗜好者たちがアートを侵食するようにして拡がったことによって、その転換期を迎えたことと無関係ではないだろう。それは、いわゆる「現代美術」崩壊後の美術/芸術が「アート化」し、またそのアートがその後さらに《非アート化》して行く過程でもある。

見て感じるほうからすれば、もはやアートである必要よりも、ことさらアートでなくてもよい自然の声の方が多数なのだ。僕はそのことを今回の堀本達矢の個展によって改めて考えさせられた。これから美術予備校や美大・芸大のシステムのなかで旧来の芸術教育を受けながら、いっぽうで新しい現実に立ち向かわねばならない学生たちの多くは、むしろ非芸術的ともいえる「非アート」の表現を同時に生きるということになるだろう。いやすでにそうなっているのだから。

これまでの「芸術」は、古典を始めかつてあった芸術として認知され評価され遺産化されていく。「芸術の自律」と言われたものは、すでに遠い過去のものとなってしまった。だからこれからの《芸術》はこれまでの拡張とは逆に、もっと狭く鋭くなおかつ険しい領域を切り開くしかないのかも知れない。

そこにもし《芸術》というものが可能なら、それは断崖絶壁のような怖ろしい領域なのだろうか。それでもよろしければ、と冷たく励ましながらも、世界はきっと《芸術》を残すだろう。しかしそんな芸術にこれからの若い世代は、はたして興味をいだくのだろうか。それでもこの世界に、たった一人でもあたらしい人間がいる限り《芸術》は最後まで探求されるに違いないことを、僕はどこかで信じようともしているのだが。

2020/11/18 (水)

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美術折々_305

限られてはいるが、生という無限の迷路を


詩人の北村太郎(1922-1992)は、詩集『港の人』(思潮社、1988年)のなかで

「なしとげられないことはなしとげられないままに/それこそ/風にさらされていればいい/
 木だってなにひとつ完結しているわけではないのだ」
(105)

「やっぱり生は/死のやまいなんだよ/つまり/死は健全であって/それが病気になると生になるんだ」(63)

そう詠っていた。どう天を仰ぎ見ても死なない限り、やはり生きることは病いなんだ。
ちょうど今の僕とそう変わらない歳の頃。じぶんの病いをふまえ、
死の予感と若い恋人との生のあいだで揺れていた。

どんな生も死によって完結する。死はすべての途中を、やむなく終わらせてしまう。
だが生は、作品というものは、完結しない。天は病んだまま、生もその限りにおいて完結しない。

絵画だってそうなんだ。絵はなしとげられないから、なしとげられないまま絵として現れる。
絵画はもどかしい。なぜなら絵という窮屈さにおいてしか、絵にならないからだ。どんな傑作においてさえも。
「風にさらされ」るようにして現れるしかないのだ。そう思うと、少し身も心も柔らかくなってくるようだ。

人はなぜ描くのか?なんて永遠に答えの出るものではない。そこには辿りようにない起源だけがある。
僕はどこかで、絵というものから解放されたいと考えているのかも知れない。勝手にしろよと言われそうだ。

それでも、長いあいだ何度も僕の作品を見てくださっている方にとって、僕の絵はどう映り、変わってきたのだろうか。そのことがずっと気にはなっている。僕が迷路を歩いているということは、それを見ている方も迷路の中で見ているはずだ。

ただ、なぜそれが「迷路」なのかということ。絵画とは行き止まりの壁に向かって描く行為なのか。
しかしその壁は行き止まりのまま奥へと動いているようにも思われるが。
どんな時でも迷路に行き止まりは付きものだから、すぐ引き返せばいい。

そうやっておそらく北村太郎は、行きつ戻りつ「なにひとつ完結しているわけではないのだ」と
記したのではないだろうか。
限られてはいるが、生という無限の迷路のなかで。彼はずっと港のほうを見つめ続けていたのだ。

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▲元村正信展2020より

2020/11/8 (日)

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美術折々_304

戻ってきた作品のそばで


僕の個展 『非天使』(テンシ二アラズ)2020 は
本日11月8日、無事終了しました。
見ていただいた方をはじめ、
皆さまありがとうございました。

いろんなことを考えさせられたり
考えたりしながら、自分の作品をまた見つめ直しも
しました。もしそれが絵画でなくてもよいのなら
どんな形になるのだろう、とか。

かつて「絵画の向こうに出て行く」とじぶんで言い
放ちながら、いまだ「絵画」と向き合っている。
絵というものは、僕が思っているよりもっと
単純なものなのかも知れないし。
だれかが言ったように、僕は絵を難しく考えすぎて
いるのだろうか。
じぶんで絵を難しくしているのだろうか。

戻ってきた作品のそばで、いまそんなことを
思っている。
ではまたあらためて。まずはお礼まで。


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▲元村正信展2020より

2020/11/1 (日)

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美術折々_303

だれもいない空洞だけがまぶしく



この昼の 澄みわたる青空の下 
穏やかな都心の公園の中心に ぱっくりと開いたように
大きく広がる 平らな真砂土の空き地がある

それでも子供も大人もそこで遊び戯れようなんて
思いもしないし 寄りつきもしない土曜の昼すぎ

だからそうやっていつしか空洞になったのだ
その円形の空き地を囲むようにして
朽ちかけた木製のベンチが並ぶ

それを背にして植えられた樹木の連なりを
見渡せば 結局それが公園
でも人はそこを避けるから それでも公園なのだろうか

ぼくはそのベンチのひとつに座って この空洞の中心を
ずっと見つめていた だが本当はそこに中心なんて
あるのだろうか この空しさは何なのだろう

唐突だが この空しさに応えられる「絵画」は
どれほどあるのだろうか なぜ絵画なのか
そのとき じぶんの絵をふとおもい浮かべて
いたのかも知れない

まぶしい秋の晴れ間の光だけが だれもいない空洞を
いっそう照らし たたえていた
だからといって その空洞は けして照れることなく
いまも空しさにみちている この夜にも

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