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美術折々_236
元村正信「抗い結晶するわたしたちの」
28日からアートスペース貘での個展も始まった。やっとたどり着いたというのが正直なところだ。
とくに今年は、その直前まで僕がディレクションを担当した企画展「モノリスの向こう」(アートプロ ガラ)もあって、いろんなことが重なってしまいいつも以上に忙しい夏になってしまった。
さて、その成果はどうだろうか。はじまった以上、見てくださる方にゆだねるしかない。
近くにお越しの折には、立ち寄り頂ければ幸いです。(11月10日まで)
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美術折々_235
名状しがたきもの
日々なぜわたしたちは、じぶんが思うことを他者に「説明」することを求められるのだろう。コミュニケーションのためか。説明とは、つまり分かりやすさの最大公約数だ。そうではなく、むしろじぶん自身でさえ説明〈できない〉ことの余りの多さに悩まされているのが、わたしたちというものではないのか。
説明し、言葉で表現することが、その説明できなさを、変な言い方だが多様に疎外していることもある。 しかし芸術というものは、どこかでそんな言葉をいちど転覆させた〈言葉〉でなければならないはずだ。
〈名状しがたさ〉とは、説明できないその言葉こそを欲しているのではないだろうか。その意味で絵画もまた言葉なのだ。
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美術折々_234
抗い結晶するわたしたちの
いま個展をまえに作品を制作するじぶんというものが、自分以外のもの、つまり他者や約束というものから追い詰められているのか、あるいは自らを追い込んでいるのかよく分からないのだが。いずれにしても自己というものは、あやふやなものだ。やはり自己なんて元々なかったのかも知れない。今だにだれもが、あるはずのない〈自己〉に苦しんでいるのだから。
僕もその小さなひとりだけれど。表現というものはそんな〈自己〉に多大な期待をかける。自己表現というものもそうだし、創造や想像、感性もそうだろう。そうやって、表現はつねに自己を召喚し、自己というものもまた表現に救済を求めようとする。
しかしもし、表現できない自己があり、自己など必要としない表現があるとしたら。自己と表現は、おおいなる矛盾をたがいに突きつけていることにならないか。どこまでもあやふやで茫洋とした〈わたし〉がいて、そんなわたしが〈表現〉を忌避しているとしても。だからといってそこに何も生まれないという訳ではない。
たとえ私というものがなくても、表現と呼ばれなくとも、そこで生まれるものはいくらでもあるはずだ。
〈わたしたち〉というものは、そういうものだろう。僕にとって作品というものも、そういう茫洋としたものでありながら晴天の霹靂のような現れとしてあればと思う。
「抗い結晶するわたしたちの」
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美術折々_233
〈再開〉の残念さ[付記]
「表現の不自由展・その後」の展示が10月8日から再開された。おおくの人はこの再開を歓迎しているだろう。だが僕はそれに賛成も反対もしない。前にも書いたように、ただ残念なだけである。ご承知のように「再開」といっても主催者と同展実行委との条件付合意によるものだ。入場には抽選、身分確認、手荷物預け、事前プログラム説明など多くの監視・制限・制約が課せられている。もはや「検閲」などすでに死語かも知れない。
はたしてこれは「再開」なのだろうか。誰もが見ることはできない制限・制約を選ばされた私たちというもの。運が良ければ、それでよいのか。実行委はその合意で「展示の同一性は担保されてる」としているらしい。
しかしその同一性はこの2ヵ月間にもわたる展示中止という巻き戻せない時間の喪失が、誰にも担保されず課せられることもない債務としてあるのだ。いや、私たちは負債や債務こそ悪だと教えられているから。
今回の問題で、メディアも含め多くのひとが、文化や芸術、表現というものの萎縮を語っていた。だが萎縮しているのは、私たち人間自身ではないのか。皮肉にもこうして〈生〉そのものが萎縮を受け入れながら、逆に〈死〉はどこまでも先延ばしにされ無限の労働とみずからの高齢化を強いられている。
ある大学教授が「あいちトリエンナーレ2019」への補助金不交付に触れて、交付というものは「純粋に芸術性を基準に決められるべき」だとコメントしていた。笑ってはいけない。たしかに「表現」の内実は問われている。その抑圧を巡る内実は高度に分析・解析されながら。しかし「純粋」とはなにか。「芸術性」とは何か。
そもそも〈芸術〉に基準などないのだから。ただなにも問われてはいないのだ。問われないから風化していく。その意味で「表現の不自由展・その後」の展示中止問題は、〈芸術の風化〉という現在性を私たちに突きつけてくれたのだ。
今ふうに言えば、「芸術を忘れないために私たちにできること」。それは唯一、芸術を忘れることだ。忘却の彼方へ、私たちひとりひとりが多様に丁寧に誠意をもって、芸術というものを忘却しようではないか。
もしかしたら、これから芸術を生き、語るには、芸術を喪失することによってしか〈芸術〉は現れないのかも知れない。
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美術折々_232
〈再開〉の残念さ
「あいちトリエンナーレ2019」の中の、例の企画展「表現の不自由展・その後」の展示が会期終盤の10月6日〜8日の3日間の予定で条件付きながら、「再開」されることになったと9月30日付の共同通信が報じていた。
しかしいまさら何だ、と言うしかない。一部市民による脅迫に始まり開幕早々の中止。政治に翻弄されながら「表現の自由」問題から、政府の圧力による補助金の不交付まで。けっきょくこの夏の日本列島は「自由と不自由」への無関心に覆われていた。あの香港市民の抗議デモや抵抗に比べれば、この国の「平和」と呼ばれるものの鈍感さには呆れるしかない。
またひとつ私たちは、「自由」への問いを手放してしまった。テロや暴力の予告という脅しにも、たやすく屈してしまったのだし。現実の圧力以上に、見えない圧力は私たちが想像する以上に大きいことを、今回の「表現の不自由展・その後」の展示中止問題は教えている。いまさらの、茶を濁したような「再開」という合意を残念に思うばかりだ。再開ではなく〈中止〉こそ、問題の核心なのだから。議論もまた、こうして風化して行くのだろう。