元村正信の美術折々-2019-06

明日なき画廊|アートスペース貘

2019/6/13 (木)

……………………………………………………………………………………………………………………………………

美術折々_214

いつかこの卑劣な世界が

ここにこんなものがある。これを自分と比べてみると、どうなのだろう。
内閣府調査の定義によると、いわゆる〈ひきこもり〉を「広義のひきこもり群」、「ひきこもり親和群」、
「一般群」の三つに分けて定義している。
まず「広義のひきこもり群」は、
・ふだんは家にいるが、自分の趣味に関する用事のときだけ外出する。
・ふだんは家にいるが、近所のコンビニなどには出かける。
・自室からは出るが、家からは出ない。
・自室からほとんど出ない。
・現在の状態となって6ヵ月以上の者。

つぎに「ひきこもり親和群」は、
・家や自室に閉じこもって外に出ない人たちの気持ちがわかる。
・自分も、家や自室に閉じこもりたいと思うことがある。
・嫌な出来事があると、外に出たくなくなる。
・理由があるなら家や自室に閉じこもるのも仕方ないと思う。
 以上の4項目が、すべて「はい」又は1項目のみ「どちらかといえばはい」と答えた者から
「広義のひきこもり群」を除いた者。

あとの「一般群」は、そのどちらにも当てはまらないそれ以外の者ということだろう。

僕は思わずうなるのだ。じぶんは、ほとんど「ひきこもり親和群」の一人ではないかと。いや、もっと積極的にそうありたい、そうあれば、こんなにも無残でほとんど虚偽と欺瞞で出来た社会というものと関わらなくて済むではないか。もしそれで一生を送ることができたら。それはそれで良いのではないか。しかし多くの人はそんな生活には耐えられないし、生きてはいけないというだけのことだ。

でもこの「ひきこもり親和群」。それは私たちが日々感じていることや対人関係の煩わしさ、学校、仕事、社会というものの息苦しさや不合理を少しでも考えてみれば、誰もがこの「親和群」と無縁なはずはないのだ。社会というものは、いつでも〈ひきこもる〉者たちを警戒するし、そういう眼差しを社会に習慣付けようとする。
しかし何もなければ、事故も事件もなければ、ただひっそりと生きているのなら、なんにも問題はないはずだ。一生自室に閉じこもっていようと。社会はすでに「貧困と格差」という名で、どんな人間でも堕落し失墜していくことを「自己責任」として容認しているではないか。していないというなら、いますぐ貧困と格差など廃絶すれば済むはずだ。

僕は思う。学校は、仕事は、社会は、そんなにいいものか。立派か。たとえ立派ではないとしても人間にとってそのひとつ一つが今もそうあるべきものなのか。「自己実現の場」というものは幻想ではないのか。もしそうでないと言うのなら、〈ひきこもり〉など「定義」されることもないはずだ。それがどんな〈ひきこもり群〉であろうと、そのような定義を生み出したのは私たちの、この卑劣な世界であることだけは、間違いないと思われる。
むろん〈芸術〉だって例外なくその卑劣な世界の親しい取引相手であることは、少なくとも肝に命じておこう。

2019/6/6 (木)

……………………………………………………………………………………………………………………………………

美術折々_213

水のないプール追想

すでに周知の通り6月3日、美術史家・本江邦夫氏(多摩美術大学美術館長)が亡くなられた。
僕にとっての本江さんは、彼が東京国立近代美術館の研究員になって3年目くらいだったと思う。まだ30歳だ。同時に美術手帖の展評欄にも批評を書いていて、僕の東京・真木画廊の個展「水のないプール」を見て下さり、
同誌1978年11月号の同欄で取り上げていただいたことがあった。画廊近くの日本橋室町の喫茶店で、作品に
ついて話し込んだ思い出がある。もう41年も前のことだ。

その頃は、透明ビニールを重ねていくような作品だった。ちなみにこの個展タイトル「水のないプール」は、
その4年後の1982年2月に公開された若松孝二監督、内田裕也主演の同名映画があるが、僕の当時の個展作品
とは無関係である。

ともあれ、本江さんが僕の作品に目を留めてくださったことをここで改めて感謝したい。
そして本江邦夫氏の急逝を悼むばかりである。どうぞ安らかに。

だが残された者にとってはそうもいかない。いま美術手帖6月号は、「80年代・日本のアート」と言って振り返る。一瞬、僕は目を疑った。80年代の日本に「アート」なんてあったっけ。そう呼んでいたか。あったとしても、まだ「美術」ではなかったか。「現代美術」ではなかったのか。

それでは60年代の反芸術も、当時の「反アート」は、と言い換えて歴史を修正しなければならなくなる。
ならば、桃山美術も桃山アートに書き直すか。たとえもし今の時代が美術や芸術という言い方でなく、それらをほとんど「アート」と呼び慣わしているとしても、過去を歴史を、現在から恣意的に書き直し歪めてはならないはずだ。

これを奇異に思うのは、僕だけでしょうか。歴史とは、歴史を語るとは、そういうことなのですか。
本江さん、どう思いますか。

2019/6/1 (土)

……………………………………………………………………………………………………………………………………

美術折々_212

だれが好んで捨てようか


たとえば、親と子のあいだの埋まらぬ哀しみ。5月30日付 西日本新聞朝刊文化面の、小説家・村田喜代子の
連載エッセイ『この世ランドの眺め』の中で「昭和万葉集秀歌」(1984) から引いた歌にこんな一首があった。

「泣き声も立てなくなりし吾子よ死ぬな死ねば貨車より捨てねばならぬ」 梶原徳子
                              [注]吾子(あこ):わが子、自分の子

1945年、日本の敗戦によって戦争は終わったのではなく報復の名においてなおも続行されていた。
ここにも中国満州から日本へ生死を賭けて逃れ引き揚げていく母と子が非情にもいま切り離されんとしている。
死ぬな、と叫ぶ母の声が貨車に響く。

それから8年後、僕はこの日本の片隅で泣き声も上げず逆子で生まれた。その反動だろうか、中学に入るまで毎日泣かない日はなかった。泣いてばかりのそんな子を、ついに父はある日「捨ててしまえ!」と母を怒鳴り付けた。それでもある夏、父に連れられいちどだけ鹿児島線で北九州の枝光駅から、なぜか客車ではなくあの引き揚げ者たちのように貨物列車に
乗り、関門海峡を抜けさらに山陰線で下関の安岡海水浴場に行ったことがある。
行ったといっても海の記憶はなく、ただ「安岡」という地名と「貨車」に乗って行ったことしか思い出せない。

「少年のわが夏逝けりあこがれしゆえに恐れし海を見ぬままに」 寺山修司

でもなぜその時、父はわざわざ日本海に面したそれも本州の海水浴場に僕を連れ出したのだろう。もしかしたら、泣いてばかりの僕を父は〈どこかで〉捨てたかったのだろうか。いまとなっては知るすべもないが。

先にあげた梶原徳子の歌が、僕にとっては父と二人切りの数少ない日をふと思い出させてくれた。
いまも僕は〈泣き声〉を立ててばかりだけれど、それは抗い生きていることの証しでもあるのです。
逝った父よ。

sitemap | access | contact | admin