元村正信の美術折々-2018-10

明日なき画廊|アートスペース貘

2018/10/14 (日)

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美術折々_171


絵画の〈外部〉から生まれるもの


個展を前に、いまこうしてそのための絵を描きながら改めて思うことなのだが。僕の場合「絵画」というものは、あらかじめ絵のモチーフや主題といったもの、あるいはテーマというものがあって絵を描いている訳では
ない。いつもそれらの絵は「絵画」の〈そと〉からやってくる色んな力によって出来上がってくる。

だから一般によく言われるような、自己の内面から湧き上がるものや心象風景などといったものとは全く異なるのだ。いってみれば〈絵画ではないもの〉が、僕をしてここにある絵画を描かせているとでもいうのか。
ただそれが「絵画」という形式である以上、だれが見ても絵画にみえてしまうのは当たり前なのだが。

もうすぐ出来上がるであろう絵は、もしかしたら絵ではない何かかも知れないし、絵以上に「絵」であるかも
しれない。少なくとも僕にとって、もはや「絵画」は絵画自体から生まれることはない。むしろ絵画を必要と
しないものの中から、あらたに「絵画」は必要とされ生まれてくるだろう。

2018/10/4 (木)

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美術折々_170


アートシンキング


今週の始め、ある大学の大学院芸術研究科の授業の中で少し話をさせていただいた。
美術家としての僕のこれまでの作品のことやアートと芸術を巡る問題、それに最近の企業や経済活動の中でも
よく主張されるようになったアートシンキングについてなどなど。

なかでもこの「アートシンキング」は、狭義のアートについての思考や単なる問題解決のための方法としてではなく、ビジネスや企業活動のうえで「アートの力」によって未来を問い創造していくための方法論などと言われているのだが。ここでの手法というのはアートそのものを問おうとしているのではなく、つまりアート的と思われてきたもの、いわば豊かな感性や創造性あるいは想像力を駆使した問いや、問題を提起する力を言っている
ようだ。

だが、アートが商品になり、商品がアートになる。そうやって芸術もアート化する。さらにビジネスもアート化し、ともにアートもそして「感性」もビジネス化されているのが現在である。だからアートは企業の写し鏡などと言われるのも分かるというものだ。もはやアートとビジネスを区別できるものはないに等しい。

たしかに、芸術の概念は絶えず問われ続けている。しかしそれは〈芸術の定義〉への抵抗として、芸術の概念が問われなければならないからなのだ。ありうるかも知れない芸術。それは少なくとも道具(ツール)化、手段化されない自律する〈問い〉としてあるからではないだろうか。

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