元村正信の美術折々-2018-09

明日なき画廊|アートスペース貘

2018/9/22 (土)

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美術折々_168


ただいま格闘中(続)


きょう、やっと新しいSafari12に対応できた。いま再びこうして書き込めるようになった。
あらためていまの私たちはなぜ、日々このような見えない力に振り回されなければならないのだろうかと思う。

自然にしろ人為的災害にしても、突然の猛威や変異あるいは劣化、更新という名の不具合と出合った時、その動揺の強弱大小にかかわらず私たちの転倒やつまずきといったものは、じつはどれも脆弱さをさらけ出すという意味で、なんら変わりはないのだというところまで来てしまったのだろうか。

そのように自然と人工の違いすら区別することができなくなったとき、自然と芸術との区別以上に「芸術」と「芸術ではないもの」とを、私たちはいったいどう区別し見極めることができるのだろう。もし出来るとしたら、それはどんな力なのだろうか、と考えたりするのだ。

そしてもし、「芸術」と「芸術ではないもの」とを区別できないのだとしたら、区別できなくなるのだとしたら、この世に「芸術」は無きものとなる。芸術の劣化といわれるものの先にあるものも、おそらくそう遠くない「芸術なき」未来の世界ということになる。

2018/9/21 (金)

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美術折々_167


ただいま格闘中


いつもならこのブログはPCで書いて、それを貘のサイトにUPしているのだが、2日前の夕方突然、Safariが開けなくなってしまった。なぜか知らない内に、公開されたばかりのSafari12にアップされていたのだ。

そういう訳でいまこの文章は、携帯で書いているのです。きょう、個展のDMも上がってきた。あす貘に持って行く予定だ。作品の方は、まだまだ格闘中です。

2018/9/12 (水)

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美術折々_166


再びこの現実に向けて帰還するものたち


私たち人間の感情反応には、肯定的感情と否定的感情があるのはよく知られる通りだ。肯定的というのは単純に気持ちいい、心地よいとか快適に感じたり安心安堵する感情であり、いっぽう否定的な感情というのは、何かに不満を覚えたり不快や不安を抱くことによって落ち込んだり、さらに心身の停滞や衰弱すら招くこともある。

だがこの、否定的感情は例えば「なぜそうでなければならないのか」「そうであっていいはずがない」といった疑問や違和を感じたり、また物事の虚偽や欺瞞、あるいは私たちの生存を脅かすような外圧に対しても屈することなく反射的に反応することができるものでもある。

当然このふたつの感情は、私たちの「芸術」にも言えることだ。特に否定的感情というのは、押し付けられた
制度や既成の作品または概念への反発あるいは何かを破壊しようとする衝動として、いまだ出合ったことのない想像的な企てにもつながっているものだ。ただその感情が自己の内面をさまよい搔きまわすだけであるなら、
それはやがて行き詰まり絶望を相手にするしかない。

そうではなく、この否定的感情によってみずからを超え出て行こうとする、打ち破っていこうとする「意志的」な、「超克的」な感情にも似たものがもしあるのだとしたら、それはやがて再びあらたな力を得て肯定的にこの現実に向けて帰還することになるのではないだろうか。たとえそこがどんなにきらびやかな荒地であろうとも。

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2018/9/4 (火)

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美術折々_165


起こりうるかも知れない〈場所〉


9月3日付 毎日新聞夕刊1面に「ニッチ文学賞 続々」という見出しで、従来の文学賞とはことなる「ニッチ」な新人文学賞を大手出版社が立て続けに創設している、という記事が載っていた。ニッチとはよく隙間産業とか
言われ、既成の市場や分野が扱っていなかった商品や手法によってあらたなニーズを掘り起こそうとする、
あれである。

文学賞に「ニッチ」?とおもうかも知れないが、本が売れないなら、誰でも知っている直木賞や芥川賞などとは違う、例えば「警察小説大賞」や「日本おいしい小説大賞」など特定のテーマやモチーフを対象に絞り込んで、広く浅くではなく、狭く多くで読者層の開拓をねらったスキマ産業ならぬスキマ文学賞なのである。それも大手出版社じしんが創設しているのだから、その危機感というか「賞効果」によって本を売りたいという出版業界の苦悩と挑戦の一端が伺えるというものだろう。

では、美術やアートの世界はどうなのだろう。日本に限って見ても、いつの時代でも大きな賞から小さな賞まで国内各地、いわゆる公募団体まで含めると、それこそピンキリごまんとある。いずれにしても「賞」というものは、与えるほうも頂く方も、ある種の〈権威〉を媒介にして仮構的につながる訳である。作家にとって、青年期を過ぎての老境に至ってからの賞というのは、宝クジならいざ知らず、付録のようなものでそんなにそれからの人生を狂わすようなことは多くはないと思うが、こと若い人にとっては、往々にしてあるものだ。

たとえば、20代中頃でたまたま大きな賞をもらい、有るか無きかの自らの才能というものがわからぬままそれ以後、作家としての人生にひたすら固執した結果、けっきょく無残な作品ばかりを残すしかなかった人も多い。自らに絶望することなどいくらでもある。むしろその絶望にすら気づかない作家の何とおおいことか。とくに「若手作家」という希望に溢れた美しい響きに、おのずと周囲も期待度を高め煽るものだ。しかしそれもせいぜい40代くらいまでの話だ。

確かにいまの若い作家は恵まれていると思う。人によっては大学の卒展ですでに企画ギャラリーが青田買いしてくれるし、国内外の賞やレジデンス、企画展あるいは地域アートなど、活躍の場も多い。助成金のチャンスも
増えた。おのずと作家として生きていけるのでは、という希望も膨らむだろう。

だがまてよ。それって「作家」として生きていけることに繋がるのかも知れないが、「芸術」を生きていくことと同じことになるのだろうか。ただ専業化しただけではないのか。もしかしたら、アーティストになれれば芸術への問いなど二の次だ、なんてことなのだろうか。しかし今は、だれでもアーティストの時代なんだから、どんなことをしても自らアーティストと名乗れば問いなどなくとも済むのだろう。

話をもとに戻せば、「賞効果」というものは〈権威〉を媒介にした知名度の消費計数にすぎない。じつは「賞」を頂点とした業界ヒエラルキーや市場の〈外部〉にこそ文学や芸術の根源的な問いや、営みは、在るのではないか。「ニッチ」すら及ばぬもの、そこから必然的にこぼれ落ちるところ。それが、いまだ定かならぬ文学や芸術が、
これから起こりうるかも知れない〈場所〉となるのではないのだろうか。

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