元村正信の美術折々-2018-01

明日なき画廊|アートスペース貘

2018/1/31 (水)

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美術折々_128

「商品」の先にあるはずのもの

2013年4月。日銀が大規模な金融緩和実施を決めてからもうすぐ5年になる。
デフレからのの克服、脱却を挙げてから。

だが日本のデフレというのは、1990年代後半からのこの20年間たえず進行してきた。それは同時にアメリカに
端を発する国際資本の完全自由化によってグローバリズムという資本の絶対的優位が、世界を席巻し越境し続けてきた時間でもある。このことは、それまでのデフレやインフレといった物価の上下動が左右した概念を、無効にしたのではないだろうか。

それはまた勝者と敗者、あるいは強者と弱者、もしくは富者と貧者という、これまで人間の相対的な関係にしか
すぎなかったものを、実体化し固定化し、階層化しさらに二極化した。つまりこれらを商品化してしまった
のだ。たとえば、あるものを売る時に露骨にも富裕層向けにとか、それをターゲットにしたとかいう、アレで
ある。訪日外国人旅行者向け、そのまた富裕層向け、とかいうのも同じだろう。

またそれらが自然に何の抵抗もなく受け入れられている。勝者向け商品、弱者向け市場…。老若男女のあらゆる
欲求や行動は細かく分類、分割、差別化され対象化されてしまっている。いつの間にか私たち人間自身が知らぬ間に私たち人間を《商品化》して見る、見られる。扱う、もてなす。これはまさに市場原理と同じ様な価値基準によって人間関係をも気づかないまま商品化し、それを日常化しようとしていることではないのか。

人間の行為や行動の先には、かならず「商品化」が待ち受けているのだと。

たしかに私たちは日々自らの労働を売り、その仕事を商品化している。そのことによって何がしかの金(カネ)を得ている。だがそれは自分の労働を商品化しているだけであって、人と人との関係そのものを「商品化」して
いた訳ではない。

でも僕は思うのだ。たとえば、なぜ恋愛を面倒に感じたり、結婚を躊躇するのか。むろん生きる上で恋愛や結婚なしでも人生はありうる。要するに人とひとを結びつける契機とでもいうか、そんな感情や衝動のような直接的なきっかけが、新しい「商品概念」によって腐蝕されているのではないか。よくある人間関係のわずらわしさというのは、じつは人間どうしの関係だけではなく、そこに自分の身体の延長のような「商品」が、からだの枝葉末節にまで行き渡り、まとわり付き、人間というものに絡んでいることへの違和感なのではないのか。

多分に、じぶんの身体やその経験に貼り付いた見えない「商品」の記憶が、私たちの思考や行動を〈変形〉させているのは哀しい。しかしそういう人間関係の徹底した《商品化》の先に私たちの身体が、精神が、崩壊仕切ってしまうとは僕にはどうしても思えない。

人間の関係が、ことごとく《商品化》されてもなお私たちは〈商品の先に〉あるはずのものを、おぼろげながらでもおそらく見つめているはずだ。こんなに、うんざりするほどの虚偽と欺瞞の生活に、耐え続けてもなお
それが生きるに値するものであるのなら。

明日という面倒な日々も、悪いはずはないのだと。

2018/1/24 (水)

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美術折々_127

映像作家、福間良夫 なら

昨年暮れ、FMF福岡の山本 宰 氏からある冊子を送って頂いたのだが、例の風邪のせいでこの冊子のことに触れ
ないでいたままだった。ある冊子というのは『映像作家 福間良夫とFMF』。福岡を拠点に国内外で活動していた今は亡き映像作家、福間良夫と彼が主宰していたフィルム・メーカーズ・フィールド(FMF)の軌跡を記録
すべく、彼と関わりのあった人たち22名の寄稿文と関連資料によって振り返ったものだ。またこの記録集出版と同時に、11月25日・26日に薬院のIAF SHOP* にて『福間良夫没後10年追悼映像個展』も開催された。

福間良夫は1953年福岡市に生まれ、1970年代後半からいわゆる実験的な個人映画、それも8mmフィルムを
中心とした作品や多くのシネマテークを通して果敢な活動を展開する。京都の映像作家、櫻井篤史は福間の作品を「静謐かつ緊張感に満ちた独特の質感を伴っている」と評していた。しかし福間良夫は、2007年6月28日
下腹部大動脈瘤破裂により急逝してしまう。まだ53歳のなかば。その時、無念だけが彼と彼を知る者すべてを
突き抜いていたはずだ。

じつは僕は、福間良夫と同い年でおなじ大学に在籍してもいた。1977年にノト・ヨシヒコ、森田淳壱そして
福間によって結成されたフィルム・メーカーズ・フィールド(FMF)が、その年から始めたシネマテークに僕ら若い美術家もすぐに足げく通うようになると、自然に彼らと顔見知りになり実験的な個人映画と現代美術は互いに見たり見られたりするようになった訳である。さらに九州芸術工科大学を中心とした実験映画研究会の活動や、それらを煽るかのように当時の福岡アメリカンセンターでは、頻繁にアメリカの作家を招いての実験映画や現代美術を紹介する上映や講演会が開かれ若い世代を刺激していたのだった。

1970年代後半というのは、アーサー・C・ダントーが言ったようないわゆる「近代芸術(モダン)と現代芸術(コンテンポラリー)との鋭い差異」が意識されるようになった時期でもある。福岡のことでいえば、この頃の
僕にとっては「反芸術」を標榜したかつての九州派と、そのあとの僕らの世代によって展開される「現代美術」との、ある種の断絶や違和というものを意識せざるを得なかった。

ともあれ、あの頃からもうすでに40年が過ぎている。そして福間良夫の没後10年は、最も近くにいた盟友・
宮田靖子がいうように「映像の在り方」さえもが、「アートとしての映像」の中に収斂されていくかのような
現在でもある。その後の私たちは、はたして福間良夫を乗り越えられたと言い切れるのだろうか。これは映画
だけの問題ではない。美術そして芸術もまた、「アート」という完全に自由で強大な市場的奔流にどう抗って
行けるのだろうか。それでもまだ、私たちはこうして生きているのだから。

もし福間良夫なら、この光景をなんと言うだろうか。

2018/1/17 (水)

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美術折々_126

非現実的に実現するということ

やっと咳も抜けた。少しずつ心身が快復していく感覚。遅ればせながらの始動である。

こうして徐々に、いつも生活している虚偽と欺瞞にみちた社会やそこから多少ともなりわいを得ることに復帰して行くじぶんを見ていると、おそらく 「誰もが活きいきと輝く安心安全で健康な社会」というものが、逆に多くの人がどこかで感じているはずの様々な生の不全感を、ネガティブなものとして捉えたり、あるいは生のマイナス要因にしたり、そこからこぼれ落ちるものを非生産的・非創造的だとする力に、私たちは巧みにコントロールされていることが改めてよく分かる。

たとえば、アートの社会化あるいは社会のアート化の流れもそうだ。コミュニティーに開かれ機能するアートの社会的役割は、そのまま社会というものを感性的、創造的にも活発化、活性化するための方法としてますます
積極的に採用されている。

かつて アドルノは、「芸術は現実の和解を犠牲にして、和解を非現実的に実現する」(『美の理論』1985)と語っている。

ここで「現実の和解」とは、いまでいうなら「アートの社会化」といってもよいだろう。つまりアートの社会化を犠牲にすることによって、もしかしたら〈アート〉というものは、アートによって社会との和解を非現実的に実現できるのだ、アートになることができるのだ、と言いかえることもできるのではないか。

「和解を非現実的に実現する」というのは、おそらく アドルノが〈芸術〉というものに託した〈社会との関係〉のことであろう。芸術に残された希望、あるいは絶望でもいい。もしくは「なりうるかもしれない状態」に期待してのことだったと、僕は理解している。

生の不全感というものは、いまだ〈芸術〉をもその根柢から支えているのではないだろうか。芸術が、非現実的に実現できるものとは何か。いままであり得なかったもの。それは発明でも発見でも、表現でもいいのだが。
いままでこの世界になかったもの、つまり非現実的な存在であったものを実現する、現実のものとするという
のを、私たちは〈芸術〉に期待しているのではなかったのか。

何かわれわれの知らないもの。現実の変形として〈芸術〉は現れるのではないだろうか。社会的に機能する以前に、社会の否定的変形としての《美的経験》を、私たちの〈芸術〉は、なおも試されているだと僕は思う。

2018/1/12 (金)

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美術折々_125

生の処方箋

新年を迎えたものの、年末からの風邪がいまだなかなか治らない。臥せた体を起こして、小雪の舞う今朝、
やっと近くの医院へ行ってきた。風邪で医者にかかるのも40数年振りのことだ。その待合室がまた寒かった。
震えながら一時間ほど待って無口な医師の、型通りのみじかい診察を終え処方箋を受け取り医院を出る。
僕の症状は風邪なのか。医者は何もいわなかった。お大事にとも何とも。僕がやはり風邪ですか?と聞けば、
医者はそうですね、きっとそう答えたに違いない。

寒けに震える僕はいったい何を期待していたのだろう。もしかしたら、風邪とはちがう別の兆候を聞きたかったのだろうか。それに比べ、薬をもらいに立ち寄った調剤薬局の暖房のあたたかったこと。僕はその短い待ち時間のぬくもりに、おもわず救われるような気がした。

思想家の千坂恭二が、「思想とは結論の出ないことを考えることでもあり(だから、思想は生の処方箋にはならない)、そもそも何をしているのか分からないこと」であると言っていた。ではわが「芸術」はどうなのだろう。芸術は、生の処方箋になりうるか。

俗に「毒と薬」というが、芸術は生の処方箋になりうるどころか、むしろ芸術という中毒に陥っても良薬にはならないだろう。むろん芸術療法という治療方法もあるにはあるが。芸術家じしんにとっては、快癒からどれだけ遠ざかれるかどうかによってみずからの《病い》というものの深さを知ることによって、だれにも分からない「芸術」というものを生むことができるのだから。

むしろ「芸術」は快癒不能であり、予定調和的な「生の処方箋」を否定し破棄することによって、薬のちから
ではなく逆に自らが毒として立ち振る舞うことができるか否かこそが、問われているではないだろうか。

咳込みながらの、新しい年の始まりである。いずれにしろ、できれば〈処方箋〉などというものとは無縁でありたいものだ。

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