元村正信の美術折々-2017-12

明日なき画廊|アートスペース貘

2017/12/31 (日)

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美術折々_124

起きてみれば

もうすぐ新年を迎えるというのに、不覚にも風邪をひいてしまった。この6日間というもの、ほとんど咳と悪寒に苦しみながらただただ寝て暮らしていた。こんなに激しい風邪はこの40年来記憶にない。

ほんとうは、今年の最悪なアートなんかを振り返ってみたりしたかったのだが。
それはまた別のかたちで改めて触れることにしよう。

この一年『美術折々』に、辛抱強くお付き合いいただいた皆様。あるいは初めての方、たまに読まれる方等々。
ほんとうにありがとうございました。

2018年が、みなさまとともに「芸術」に激しいあらたな動揺が生まれますように 。

「爆発物のかたわらに置かれていないあらゆる教えは、無用である」というニーチェの言葉を添えて。

どうぞよい年でありますよう。

2017/12/23 (土)

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美術折々_123

欠くはずのない、光と闇を持て

いまでは健康芸術ということばさえあるくらい、どうやら芸術は健康で健全で穏やかな生活におおいに寄与しているらしい。もっとも、僕にとって〈芸術〉はこの上なく不健康で不健全で、不穏な生の領域からその衝動は
発せられるものなのだが。

美術家の彦坂尚嘉がFBで、「芸術の意味というものを、ストレスの低下の中に見るというのが、今日の多くの人達なのです」そして「ストレスの少ないものを見つめていたい。そういう欲望を持っているのです」と書いて
いた。これはその通りだろう。

つまり、私たちは芸術というものにもストレスを感じたくないのである。アートとの出合いにおいて不愉快な思いをしたくない。いまの市場原理というのは、商品が不快感や嫌悪感を人に起こさないことを前提にしている
ので、そういう商品に慣れ親しむ私たちは、芸術と思っている「商品」に対してもおなじ感覚で接することに
なる訳である。

たとえば、最近全国各地で増えてきたアートホテルやホステル。宿泊施設の部屋の内外に単に作品を配置する
だけでなく、客室そのものを半ば作品化したり、そこでの作品との出合いやアート体験を売りものにするホテルといったあれである。

これらは一見、アート好きには歓迎されそうだが、そこに収まる作品はおのずと企画段階で選別され不快、不愉快を感じさせないものになっている。僕などは、たまにホテルに泊まるなら、やはり清潔でシンプルな部屋にゆったりくつろぎたいと思う方だ。ひとりでも誰かとでも、そこでは「見る」ために泊まるのではなく、休息
するために泊まるのだから。まあ、アートホテルというものも千差万別で多様な「ホテル」のひとつの形態と
考えれば済むのだろうが。

話を戻すと、芸術の体験というものが非-ストレス化に向かっていること。健康な芸術、楽しめるアート、癒しの表現等々。この日々過剰なモノとコトと出合いの社会にあって、もはや仮想空間すら現実としている私たちにとって、芸術は異質で不可解な〈美的経験〉としてではなく、日常となんら変わることのない顔を持つイベント的な消費体験を提供するものだという理解のしかた、つまりある種のひと時の〈幸福感〉を、そのような体験をアートにも求めているのだと、僕は思う。

しかし、もしほんとうにそれが芸術〈作品〉との出合いだとしたら、芸術はずいぶんと見くびられていることになる。それはまた当の芸術じしんが、過激でも先鋭的でもなく脆弱にも変質している皮肉な証しともなっているのである。残念なことだ。

だが、〈真性の芸術〉というものは、光と闇のいずれをも欠くものではない。眩しいばかりの光と、そして暗闇や、
漆黒の闇と自らがつながらずして〈作品〉は生まれないのではないだろうか。だとすれば、違和や不穏な生は、目の前の作品にもあるべくしてあるはずだ。欠くはずのないものとして。

2017/12/15 (金)

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美術折々_122

伸び悩む消費にひそむ否定性

ちょっと場違いな、と思われるかも知れない株価の話から。

先月、11月7日に日経平均株価が2万2937円60銭となり、バブル崩壊後なんと26年振りに最高値を付けた。

それから1ヵ月以上経つが、いまも2万2600円前後で推移している。好調な企業決算、さらに法人税は20%に
下げられるという。いわゆる企業の内部留保も過去最高を更新した。なぜそれが分配へと向かわないのか。
世界景気の拡大、円安と海外投資家のマネーの流入などによって、海外に展開し続けるポスト日本の大企業や、したたかな国内の個人投資家まで、さぞや潤っているに違いない。いや、満面の笑みは隠され社会に表立っては
こないが、僕はこれを「裏バブル」と勝手に呼んでいる。

しかし一方、それでもなぜデフレから脱却できなのか。なぜ「消費」は伸び悩んでいるのか。景気の底上げは
どうして見えてこないのか。

一般にいわれる「消費者」というのはその多くは、自らの労働を売り(芸術だっておなじ)それを商品化する
ことでそれほど多くはない賃金を得て生活している私たちである。その私たちはというと賃金の伸びは前年比 0%台でほとんど上昇しないままだ。さらにマイナス金利は預金や貯金で少しばかりの利子を得るという
「方法」すら消費者から奪い取ってしまったのである。若い世代には「利子」などという感覚はもとからない
はずだ。

結局、グローバリズムの拡大は「資本と労働の分配構造」の崩壊をもたらした。
この明暗はじつは異常な事態ではないのか。

とうぜんのように私たちの消費は、生活の内実は、ネット通販や国外産の安い商品に流れ、また国産の食品などもいつの間にかサイズの縮少や味の変化といった、見えない品質の劣化が巧妙に進行しているのを誰もが感じているはずだ。たとえばファッションの崩壊。好きなものを好きなように着る。色も素材も形も、なんでもアリ。誰もが着たいものを着て、組み合わせている。流行などといったものは、あるようでない。だから安いモノへと向かう。見えがよければなおよい。

現代生活には金がかかる。というより、ほとんど日々「カネ」によっ維持するしかない。であるなら、なかなか上昇せずうまくいかない限られた収入は、限られた消費の仕方によって賢く使うしかない。あるいは一部のみ
マニアックに他はプアで。きっと個人の孤独な楽しみにも、消費の優先順位はクールに付けられているはずだ。それでも増税や保険料の義務負担が容赦なく追い打ちをかけ続ける。「景気の拡大」の実体は虚像そのものだ。たぶんそのような個人には届かない。

たとえ、何かの売り上げが伸び、何かの消費が延びても、どこかの売り上げが落ち、どこかで消費が減退しているに違いない。おそらく、これからも私たちの「消費」は伸びることはないと、僕は思う。ときに落ち込むか、
ほぼ横ばいのままだろう。訪日外国人旅行者の増加への誘致や期待は、消費閉塞のいびつな裏返しにすぎない。

過剰にライトアップされた夜の街角。冬の寒さを覆い隠すように、きらびやかで賑やかで、すれちがう知らない人さえ幸せそうに見えてしまう、12月。つねに私たちの「欲望」は刺激され、「消費」を促され続けているのだけれど、誰かが期待するほどカネは踊ってはいないはずだ。

これらの残酷な「明暗」がそのまま同時に進行し悪化する〈私たちの生活〉は、景気の拡大という虚偽と欺瞞のむなしき報告は、きっとこの街のどこかで、見えない無力な個人によって否定されているのではないだろうか。

だから、「消費」の全体は伸び悩み続けているのだと僕は思う、これからも。

2017/12/8 (金)

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美術折々_121

語り得ないもののための黒いコート

あのランボーに「私はひとりの他者である」(『見者の手紙』)という名句がある。
光野浩一展「STAND ALONE」を見ながら、僕はこの言葉が含み持つ意味をそこに重ね合わせていた。

これまで光野の作品を貫いているのは、ランボー的という言い方が許されるなら〈自己と他者〉をめぐっての
関係、そこでの違和や喪失感あるいは精神と肉体との分裂といった、主体の疎外や心の闇を解こうとする、
光野自身のことばで言うなら「精神的な死を回避するための」誠実な問いかけであり、すぐれて〈美術〉的な
試行ではないだろうか。

今回、まず画廊の四方の壁に目をやると、真っ白な多数の角板が様々な角度でランダムに掛けられていて、その表面には道路や建物跡を暗示するような窪みがある。そして床には、少し浮くようにして設置された大きな白い
十字路のような板があり、またその表面にも道路の凹み、住宅やビルのようなミニチュアが無数に配され架空の町並みをなし、さらにその交差点上にはこれらのジオラマのスケールからすれば巨大な、ともいえる黒く分厚いゴム製のトレンチコートが突き立てられている。

もしかしたら光野は、一面雪景色とも見れる無垢で静謐な町に、スウィフトのガリバー旅行記のような巨人を、
いや生身の肉体を欠いたコートのみの、空洞としての「虚人」を立たせてみたかったのかも知れない。
一体ここにはどんな風が吹き抜けているのだろう。だがこのリリパットの白い大地には人影の微塵もない。
私たちは、かつてそこにあったかも知れないゴーストのような都市の幻影を見せられているのだろうか。

光野はつねづね、自己と他者、そして社会というものを考えるときに、「俯瞰」ということばを使っている。
おそらくこの白いジオラマも、私たちの社会を見おろすようにして立つ黒いゴム製のコートも、そのための
「装置」と位置付けられるだろう。

しかしそれでも今回の、硬く黒いゴムのコートが持つ、人を拒むような冷徹な強さ。ゴムという弾性や絶縁性を踏まえてもなお、そこにある孤立した仮象としての空洞の、主体の抜け殻としての不在のコートは、何を暗示
しているのだろうか。身を包むためのコートであるはずなのに、その主はここにはいない。

ランボーが 「私はひとりの他者である」といったとき、「私は」と発した時、その瞬間私は他者じしんの「私」となったはずだ。

僕は思うのだ。光野浩一にとってこの「コート」は、 〈私という他者〉 であると。ジャック・ラカンは、人間が他者にならねばならぬ必然性に思いをめぐらしていた。おそらく 光野もまた、自己という存在にさいなまれながら他者の語らいの中を生きるために、彼にとっての「作品」は、きっとこのようにしてしか在りえないので
あろう。まさに彼が望んだように、そこには「語り得ないものの気配」が色濃くただよっているのだった。
  
                            (同展はアートスペース貘にて、12月10日迄)


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