元村正信の美術折々-2017-10

明日なき画廊|アートスペース貘

2017/10/29 (日)

……………………………………………………………………………………………………………………………………
美術折々_116

アート その究極の定義


「アート」か、「芸術」か、を巡っての先日の屋根裏貘でのトークでも出たことだが、僕なりに現在の
カタカナの「アート」というものを解釈するなら。

まず不特定多数の人を楽しませたり元気づけ笑顔にするための消費や流通の方法のひとつとして採用される
エンターテインメントとしてのアート。一方、少数からでも参加や対話、行為、つながり、そして地域といった社会とより積極的に深く関わろうとすることから始まる、いわゆるソーシャリー・エンゲージド・アートとを、その両極に置いて考えてみれば、分かりやすいと思っている。

この日本でみずから「アート」と称するものであれば、おそらくこの両極のあいだのどこかに位置付けられる
のではないだろうか。そこでの「アート」の多くは、まず存在論的に「アートとは何か」を問うことよりも、アート《と》何か、アート《で》何かと、アート《が》何かを、といったつまり人と人、ものともの、あるいは人とものとの間にあって何かと何かを〈媒介〉する、有用有益なる媒体としての、そういう機能をもった役割
としての存在である。とうぜん、まちとアート、地域とアート、国家とアート、もまたしかり。

近代以後、この国が生んだ翻訳語としての「美術/芸術」の概念の拡張のすえに、私たちはいまでは積極的に
カタカナの「アート」という語を選びとってしまった変わりに、「アート」の内実を不問に付してしまうことで「アート」という名の空洞を手に入れた。

いや空洞化することによって、その内実を問わないことによって、グローバルに、より「自由」になったので
ある。もはや、アートはアート自らではなく、アート以外のあらゆるものとの関係性においてこそ「アート」であると規定しうるなら、その規定の内側はまったくの空無ということになる。

100年前にマルセル・デュシャンは、あの『泉』によって当時の美術の概念に「打撃」を与えたのではなく、
逆に美術の新たな「概念」というものをより強固に、より鮮烈に差し示す結果をもたらした。それは彼自身が
超えようとして意図したものが、「美術」そのものを拡張したと同時に「美術」として認知されたことを意味
してもいたのだ。だがいま、すでに「アート」にそのような概念の内包性も拡張も期待されてはいない。

むしろ概念への問いをまたいで、「アート」は持てはやされている。重宝がられている、と言うべきだろうか。
「アート」はそれで済むのかも知れない。しかし、いまだ「芸術」は必要とされているのだろうか、という疑念は残っている。

美術評論家の宮田徹也は、現在開催中の『ヨコハマトリエンナーレ』(11月5日迄)のリポートの中で
「アートが、日常に完全に飲み込まれているように感じます」。そしてさらに「アートが日常化したのでも、
特権的な姿を放棄したのでもなく、アートが日常に、完全に敗北したとしか思えないのです」と記していた。

「瑣末な現実」の羅列にしか見えないアートとはいったい何なのか。たとえば、日常=社会だとするなら、
そのような日常や社会に積極的に深く関わろうとする「アート」が、日常あるいは社会に〈完全に敗北〉して
いるように見えてしまったこと。

「アート」を考えるとき、この体験は決して軽くはないはずだ。アートは日常を超えるどころか、
もしかしたら、どっぷりと日常と関係し協同し重用されることによって「アート」たりうるかも知れない。
近い将来、「アートはアートではないことによって」唯一その存在価値を証明する日が来るのだろうか。

《アートとは、アートではないことによってのみアートたりえるものである》 という究極の定義が。
であれば、アーティストもアーティストであることを廃棄することによってのみアーティストたりえる、
ということになるのかな。

2017/10/21 (土)

……………………………………………………………………………………………………………………………………
美術折々_115

弾かれる思い


そぼ降る雨のなか。

東の方から西へと池の水面に、屈折させながら白い線を描いてみた。

だからといって、どうなるという訳でもないのだが。

白い線はどこまでも仮構であって、水面そのものは何ひとつ関わってはいないはずなのに。

それでも僕が、この世のどこかにひとすじの亀裂を入れたいという願いさえも、弾かれて。

水面だけが冷たく笑っているのだった。

whiteline_171020.jpg

2017/10/17 (火)

……………………………………………………………………………………………………………………………………
美術折々_114

おわらない「終り」


雨のオープニングで始まり、エンディングも雨で閉じた今年の個展。
多くの方に見ていただき、そして土曜夜のトークライブも無事終了した。

きょうは昨日からの雨も上がり、そとは肌寒かったが、午前中ひさし振りに散歩に出てみた。
湿った舗道に張りつく落葉。幼稚園児たちの駆け回る声。あたらしく出来た店。

見慣れたはずの道沿いの風景も、すでに夏とはちがっているのだが、では秋はあったのだろうか、
と思うくらいにきょうは寒い。帰りにストアで見つけた鮟鱇を買う。
夜は、ぬる燗と味噌仕立ての鮟鱇鍋にしようか。

個展明けのそんな長閑な、みじかい晴れ間の午後も、もうすぐ暮れていく。
思うより早く冬が近づいているような気がした。

いつも来ていただく方、初めての方、そしてまだお会いしたことのない方々。
わざわざ足を運んでくださった皆さま、本当にありがとうございました。

2017/10/3 (火)

……………………………………………………………………………………………………………………………………
美術折々_113

ながい昼寝

貘での個展が始まった。昨夜は雨のオープニング。きょうは晴れてはいたが、朝から頭がぼ〜ッとしている。
体が空っぽになったような気分だ。思考の一時停止状態である。もう夕暮れ。ながい昼寝だった。

暑い夏の宿題をおえた安堵はいつものことだが、作品はそのような安堵に値するものになっているだろうか。
不安と自信は繰り返しやってくる。さあ、体を起こして、明日は貘へ出かけよう。

もしお時間あれば、「元村正信展」ご覧ください。10月15日迄です。

sitemap | access | contact | admin