元村正信の美術折々-2015-04

明日なき画廊|アートスペース貘

2015/4/16 (木)

美術折々_09
 

安部義博 ・ 2015

 
このところモノクロームベースの個展が続いていたアートスペース貘で、久しぶりに色彩の渦に囲まれる。
鮮やかさと、一方で濁りくぐもった色彩とが入りまじる激しくも混沌とした画面は、うららかな春霞に慣れた
こちらの目を一気にさませてくれた。
それは、初夏のつよい陽射しが突き刺さるような、荒ぶる筆触で埋め尽くされた、安部義博の絵画のこと。

もちろん、私たちはかつての抽象表現主義やフォーマリズム、モダニズム絵画と呼ばれたものを知らない訳では
ない。だがことさら安部の作品にそれらを引き付けて「現在」を語る錯誤だけは、まず避けておきたいと思う。
ただ少なくとも、ポロックが自らの作品について「何かを絵の中に探すべきではなく、絵に対して受動的になることが重要である」と答えたことは、いまもって可能であろう。無論、安部義博の絵画についてもである。

しかしこの「受動的になること」は、案外むずかしいものだ。見る者は当然、絵の「中に」何がしかの主題や
意味内容を求めたくなる。だが受動的になるということは、自らの経験や偏見、先入見に抗わねばならない。
ひたすら、絵に添うこと。今風にいえば、全肯定。あるがままを受け入れることになる。はたしてそうなのだろうか。いやそれこそが最も困難なはずだ。ましてや、どんな絵であれ共感ばかりとは限らない。ときに反感や、嫌悪さえいだくこともあるのだから。

むしろ人間というものは、視覚は、見えるものを「見えた通り」に受け入れることなど出来やしないのである。
じつは、見たいものしか見ていないというのは真実でもある。では私たちは、安部義博の絵画を前にして一体何を受けとめることができるのだろう。
白いキャンヴァスを埋め尽くすように縦横無尽に描きなぐられた粗野で荒々しい筆致は、収まりのつかない画家
じしんの欲動のようにも見える。だとしてもそのどれ程を、私たち見る者は理解できるのだろうか。ここには、肯定と否定の意志が錯綜し、打ち消し合い、あるいは重なり、もつれながら〈風景〉ならざるものが、世界の
何かが、描かれようとしているようにも見えるが、もちろんそれさえも、私ひとりの思い込みにすぎない。

複雑に入り組み、絡み合った画面そのもののように。何か答えを探すでもなく、行き着く当てのない問いを発し
つつ、描いた者も、そしてそれを見る者も、たがいに異なる場所から自らの他者を意識したまま、一片の絵画を
介して、ただ立ち尽くすしかないことだけは確かなようだ。

絵に対して「受動的に」なれるかどうかは、どうじに能動的に向き合えるかどうかに係ってもいる。
ポロックが語ったように「何かを絵の中に探すべきではない」のであれば、私たちが受けとめるべきものは、
いくら恣意的でさえあっても、やはり見ることの能動性の中にこそ、発見されるべきものだろう。

こうして安部義博の絵画に、いまも〈囲まれながら〉そんなことをずっとかんがえている。

     
                                     同展は4月26日(日)まで。

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2015/4/2 (木)

美術折々_08
 

柴田高志個展 「回帰」

 
これでもかこれでもかと、渦巻くように繰り返される細密な線描画。
凝視すればするほど、気の遠くなるようなその描線の行方に、時として見る者は自らの視線を失いかける。
それはこの作家が作画について語っているとおり、「エネルギーの塊のようなものに『不明』を纏わせ」て
いることと無関係ではないようにも思う。つまり、絵というものは緻密であればあるほど、そこに見る者は
感嘆するという傾向があり、それに対してこの作家はどこかでそれを意識的に遮断しようとしているのでは
ないだろうか。

アートスペース貘での初個展から7年。これまでその作品の多くは、墨を使い白い紙にペンで描いてきた。
だが墨らしい滲みやぼかしはむしろ少なく、今回、蝋を垂らすなど新たな試みも見られるが、やはり鋭い
ペン先から繰り出される「線」に執拗に拘ってきた作家と言ってよいだろう。
すでにドローイング作品として賞を得るなど、その評価とこれまでの活躍はよく知られるとおりだ。

では、柴田高志はいったい何を描こうとしているのだろうか。この不気味な、奇怪な、捉えどころのない
画面。いや、もっと引き付けて読むなら、人や生き物の艶かしさ、底知れぬ妖しさ。そしてこの世のものとは 思えぬ異形のかたち、異界のものたちのうごめき、さもなくば修羅幻想の妄執なのか。

だが作家は、そのすべてにノンという。であるなら、私たちはこの絵の前で、線の前で、逡巡し続けるしか
ない。

 かつて小林秀雄は、『ドストエフスキイ』の中で、「ドストエフスキイの作品の奇怪さは現実そのものの
 奇怪さ」だと言った。さらに「ドストエフスキイのいわゆる不自然さは彼の徹底したリアリズムの結果で
 ある、この作家が傍若無人なリアリストであったことによる。外に秘密はない」とまで言い切っている。

このような文をあえてここで引いたのは、唐突に過ぎるかもしれない。
しかし、ここには何か柴田高志の、作品の「内密」に触れるものと重なるものがあるような気がしたのだ。
もし柴田高志の絵をひとりの空想からではなく、うごめく「現実そのもの」から生まれてくる奇怪さであると
するなら、この若い画家に見えているのは、美しくも醜悪な線描画として現れてしまった〈現実の相貌〉だと
は言えないだろうか。それが、彼の絵の「わからなさ」の魅力なのかもしれない。
 
5月からは東京にも新たな拠点を持つという。いっそうの飛躍を期待しよう。
                                                 
                                     同展は4月12日(日)まで。

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