元村正信の美術折々/2021-04-04

明日なき画廊|アートスペース貘

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美術折々_328

似てなくもない、ため息


春が来るまえの二月、僕は見ていないが NHK(総合TV)で、ドキュメンタリーセレクション『日本一長く服役した男』という番組が放送されたという。見た方もいるだろう。僕がこれを知ったのは、翌月の新聞に載った里見 繁(関西大学教授)の短い寄稿記事でだった。

日本一長く服役した「男」というのは、強盗殺人の罪で無期懲役の判決を受け 21歳からなんと61年余り服役し、2019年に熊本刑務所から仮釈放された人だ。服役期間は日本最長といわれる。だが、出所からわずか1年ほどで体調を崩し亡くなったという。受け入れ先の介護施設での生活は荒れ、入浴や食事も拒むこともあったようだ。

彼にとって「社会」での自由とは何だったのだろうか。いや困惑というか、この社会の一見「自由」という空気にすら馴染むことが出来なかったのかも知れない。

61年間という、ほとんど想像しがたい拘禁の時間。長い不自由と鋼鉄のような規律を繰り返し課せられた生活が、ひとりの人間を蝕んだものは計り知れない。「罪と償い」と簡単に言うことはできるが、しかし。

すでに82歳を超す老齢だったといえ、「復帰」すべき社会という対象さえ理解しがたかったのではないだろうか。「刑務所に戻りたいか」という質問に、「その方が私はええように思うね」と答えたという。長すぎた時間は「罪の意識」を、償いをどう抑圧し続けたのだろう。

哲学者の鵜飼 哲は『償いのアルケオロジー』の中で「償いは常に過剰でなければならない。償いが過剰でなければならないということは、逆に言えば復讐は常に過剰になるということでもある」といっている。

61年間も服役した男にとってその「償い」は、ここでは見えない無言の罰の重圧に心身を「復讐」されたとみることもできる。出所後の、自由であるという幻想と、不自由という現実のあいだに放り出されたのは彼だけではない。この私たちの現在の「自由と不自由」も、償いと復讐というものと遠く無縁である訳ではない。

なぜなら、ほとんどお金と利害の競合と調整の優劣によって日々は評価されているのだから。償いは能力の負債が利益への転嫁によって認められ、復讐は結果主義の自己責任として冷酷に下される。

はたして社会というものが、人間のよりよき居場所なのかどうか。だって社会しかないではないか、と言われるだろうか。それは私たちを生かし縛るものの別名でもある。社会に戻った、日本一長く服役した男の居場所は、この世のどこにもなかったのだろうか。

彼のほとんど非社会的生涯の82年余と、私たちの生涯現役という100年社会。比較するのも虚しいほどだが、そこに思わず吐きたくなるため息は、似てなくもない。

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