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美術折々_325
無職というありよう
例の「働き方改革」つまり「一億総活躍社会の実現」が言われて以降、あちこちから「人生100年時代」が にじり寄ってくる。健康で元気でイキイキ100歳まで。
でもなぜ100歳までも生きねばならないのか。生きてしまうのか。健康でも不健康でも、百までも苦しくはないのか。それなりに楽しみはあるかも知れないが。長すぎる人生よ。
例えばいまだによくメディアなどで高齢者を「無職」と表記している。このあいだも新聞で、ある不幸があった95歳の高齢者を「職業不詳」と記していたのだ。もういいではないか、さんざん働いたであろう高齢者や超高齢者を〈職業〉から解放しても。
なぜわざわざ「無職」と表記しなければならないの。職がないからか。退職した人や働けない人を敢えて無職と呼び、そう記す必要があるのだろうか。もう仕事からは自由であってもいいだろうに。
そこには氏名の前に肩書き、つまり社会的地位や主たる生計を明示させる有職観念が色濃く反映されている。住所不定・職業不詳の人はまるで品行不良の民あつかいなのである。これからの「人生100年時代」は、生涯現役つまり生涯仕事・生涯有職をまっとうすることが良き人生の手本となるに違いない。
むろんそれを良しとする人もいよう。働かねば食べていけない人もいるだろう。だがよく言われていたリタイアはもう死語か。長く働き、子を育て、親も看取りやっとここらで仕事も辞め、さてこれからどう生きようかと思案する。長くなった人生なら、働くだけの仕事とは異なるそんな時間を考えていた人もいるはずだ。
だがそれ以上に、最も問題となってくるのは「生涯現役」という思考ではないのだろうか。生産年齢人口(15〜64歳)の減少の一方で、高齢者や超高齢者は増え続けている。労働生産性の向上は官民問わず必須であり、出生率の上昇も日本ではまったく実現しそうにない。あとはいかに国民全体に一生働き続けるという意識を浸透させるかだ。
生涯現役と言えば聞こえはいいが、人生100年働き続け、要するに税収に貢献しさらに医療や社会福祉、年金制度の破綻を少しでも先に伸ばしたいからだ。
4月からは「改正高年齢者雇用安定法」が施行される。これは企業の定年を70歳まで延ばし、「より長く働ける」ようにするための施策である。70歳といわずいずれは80歳定年、いや定年無き社会になっていくことだろう。
国はすぐに「人手不足の深刻化」というが、あらゆるモノとコトのAI化によって様々な仕事をロボット化し人間を不要化しておきながら、コロナ下でも急成長を続けるIT関連の人材は不足し、一方で低賃金労働は固定化され不安定なまま。さらに土木建設・運輸、製造・販売や介護職などの現場労働力が不足するといったアンバランスが深刻化しているのである。そのことが人手不足の条件格差化となって現れているのだ。
だれも好き好んで働きたい訳ではない。生きて行くのにお金がかかる社会になってしまったから、働かなければならないのだ。生まれてから死に至るまで、日々カネがいるから悲しいかな働いているのがほとんどだろう。でも少し考えれば先に触れたように、なぜ「無職」ではだめなのかという問題に行き着いてしまう。
若い人でも働けない働かない、無職という生き方を選んでいるひともいよう。「一億総活躍社会」というのは、けして多様な社会ではない。生涯働きたい人は働けばいいし、もっと違う仕事や活動、表現をしたい人はそうすればいいのだ。それはたんなる労働を意味するものではない。
いま「人生100年時代」が来ているのなら。だれもが「無職」呼ばわりされない、働かなくてもいい、もっともっと無数の違う生き方があっていいのではないだろうか。
じゃあ人生100年時代の、芸術はアートはどうなるのだろう。無職とも有職とも言えるし、そのどちらとも言えないし。どこまでも制作は発表は表現は可能なのか。ここでも長すぎる人生よ。これはまた別の機会にでも。