元村正信の美術折々/2021-02-21

明日なき画廊|アートスペース貘

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美術折々_321

未来は〈人質〉か、それとも〈物質〉同然か


アートついでに、もう少し今の「アート」に首を突っ込んで見たい。多くの人がいうように、アートとは何か、なんてほとんど誰も言わないし問いもしない。

問われさえしなければ、あとはアートと何かを結べばいい。関係付けてシンキングということだ。むしろその方が都合がいい訳だ。これは何度も言ってきたが「芸術の定義できなさ」を良いことに、そもそもの端を発している。

やっかいなのは、それまでの「美術」や「芸術」という概念を日本近代に生まれたこの翻訳語を、この国では1990年代からさらに「アート」と逆翻訳し、そう呼ぶようになってしまったからだ。

西洋の “ ART ” は日本では「美術/芸術」として翻訳・受容され、その120年後にはカタカナの「アート」になってボヤけたのである。「アート」と言ってそれを使うようになってしまった途端に、アートは無制限に拡張し拡散し始めてしまった。

最近では、いかにもありそうで実体はない「現代」と「アート」の日本的造語である「現代アート」( これは俗に言う “ Contemporary art ”の訳語ではない ) というフィクションを、何ら躊躇なく使い「現代アートに投資する楽しさ」などと喧伝し、若く有能なビジネスパーソンたちをも刺激する。

タイアップからコラボ、商品開発から共同運営まで。どんなモノでも人でも、記憶と場所でも商品化し資源化してしまうそのパワーという無限成長への欲望。

たとえばある酒造会社が写真家の森山大道と「共同開発」した日本酒を発売するという。「森山氏の作品をイメージしてコクとキレがあわさった複雑な味わいに仕上げた。同氏のサイン入りボトルも販売する」(2月19日付 日経電子版)らしい。かつてのあの森山大道でさえこうなってしまうのである。これが文化というものだ。これをアートといわずして何と言おう。

こうなるともう「アート」の内実や「アートで何ができるか」なんて、どうでもよくなってくる。どんなものでもいいのだ。すべて肯定するしかない。もうそれが写真でも酒でも、はたまた絵画か漫画かアニメか、彫刻かフィギュアかキャラクターか、映像がメディアが実写か3DCGかVRか、分からなくともいい。

すべてがミックスされシャッフルされ楽しませてくれるなら、それでいいと。皆さん好きなように表現して売買して、スキなようにやって下さいと言うしかない。それに地位と名誉と金を得れば言うことはないぜと。

僕はいまこうして、この世界というものの底無しの奔放さを前にして、途方に暮れているのかも知れない。これは絶望とかの話しではなく、そんなことさえもう私たちは忘却の彼方へ押しやってしまった上で、それこそ手当たりしだい、埋もれる未来の資源を根こそぎ剥き出しにして食いつないでいるのではないか、という泣き言なのだろうか。だれか教えてほしい。

それとも未来とはそういうものだから。あらゆる「未来」は、しょせん現在の私たちにとって〈人質〉いや〈物質〉同然なのだから。くよくよ気にするなと励ましてくれるのだろうか。だれか教えてほしい。

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