元村正信の美術折々/2020-07-21

明日なき画廊|アートスペース貘

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美術折々_287

世界は一変したのだろうか


あるひとが「社会に貢献しない人間が社会で自由に生きて何が悪い」と思います、そして
「社会のために人間があってはならない」ともつぶやいていた。

自由がかんたんではないにしても、僕もその通りだとおもう。どこまでも人間あっての社会であり、
間違っても社会あっての人間ではない。ではアートはどうだろう。
なぜこれまであれほど、社会とのつながりを望み、関係を持とうとし社会化してきたのか。

1998年にニコラ・ブリオーが発表した『関係性の美学』に端を発したとされる「リレーショナル・アート」。
いわゆるソーシャリー・エンゲージド・アートの影響はいまだ強くある。だからその流れを追随してきた
アートの世界も新型コロナウイルスによるパンデミックを境に、それ以前と以後とでは後戻りできないほどの
変質を余儀なくされたのだろうか。アートは一変したのだろうか。

ここで再びアドルノを呼びだそう。アドルノは言う。
「芸術にとって本質的な社会的関係は、芸術作品のうちに社会が内在していることであって、
 社会のうちに芸術が内在していることではない」、
「芸術自体の社会的本質は芸術にとっても隠されたもの」(『美の理論』河出書房新社、2007)
 にすぎないということだ。
つまり芸術にとって「社会」というのは、つねに芸術の内に潜在しているいうことだ。
芸術というものは、すでにそういう社会を内包しているのである。

あるひとがつぶやいていた言葉は、そのままアドルノが語った芸術と社会との関係にも当てはまる。
社会のために芸術があるのではない。社会のために芸術があってはならないと。これは現在でも生きている。
新型コロナによって「芸術」も変質するというのなら、それは社会に貢献し「社会のために」あったアートで
あり芸術のことだろう。もし芸術のうちに社会が内在しているのなら、そのような作品はそうたやすく変質する
はずなどない。それでも作品はたえず改まる。また芸術の概念は更新されながら、未来に芸術は孕まれるのだ。

もちろんリモートやオンライン化といったソーシャル・ディスタンシングによって、見る・聞く・読む・
演じることに関わる素材、手法や技法そしてその場所はさらに流動し多様化するに違いない。
でもそれが「社会のために」表現が人間が変わらねばならないのなら、それは進化という名の錯覚だろう。
やはり人間の未来のために社会は変わらねばならないはずだ。

はたしていまの新型コロナウイルスによって「この世界は一変した」のだろうか。
またあるひとが「コロナでも人はうなぎに並ぶという真理を得た」というのは、確かにうなずける
きょうは変わらず土用の丑の日。

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