元村正信の美術折々/2020-06-21

明日なき画廊|アートスペース貘

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美術折々_281

天秤に乗りながら


あちこちで流布されている「コロナ時代」という言い方への違和感。
「時代」というが、じゃあそんな時代はどこまで続くのだろうか。まさかあと1年か2年の話か。

たとえば「コロナ時代のアート」、「コロナ時代のミュージアム」という言われ方もそうだろう。
「再開」された各地の美術館や博物館も、確かにこれまでとは違った入館制限や対策を取り、入場者を迎える工夫をしている。ワークショップや参加型の展覧会もその対応に苦心しながら。

でもそれらを「コロナ時代の」と、かんたんに括っていいのだろうか。いつまで続くとも分からないまま振り回されているのが現状ではないのか。それを「時代」と名乗っていいのか。
「移動を控えるのではなく、対策を取って移動しましょう」ってなんだ。
「経済活動の正常化と感染防止の両立」を、ってなんだろう。また天秤にかけながら。

ならば感染しながらも死をかわしながら、経済活動をより活性化し、より貪欲に消費すればいいのではないか。
それだったら感染しながらも死をかわしながら、学び仕事をすればいいではないか。

要するに、見えない「コロナ」には極力気をつけながら全てのビジネスを活動を回せ。
だからもう経済的停滞は落ち込みは我慢できない。移動解除だ、動こう走ろう食べよう飲もう訪れよう。
そんなことを聞けばきくほど、僕のバカなアタマがさらにおかしくなってきそうだ。

ではこの数ヵ月来、私たちはいったい何を恐れ「自粛」していたんだろう。
マスクを着け距離を取りリモートになりオンラインになり、そしてまた妙な「再開」をする。

でも、ひどいことばかりの「過去」なんかには戻りたくはないし。かといって欺瞞にみちた「新しい日常」にも騙されたくもない。つまりどっちを向いても行き場がないのだ。上も下も横も斜めも「コロナ時代」だと言う。

ではもしもいまがその「コロナ時代」じゃなかったとしたら。ただ感染や死という恐れが日々自然に生活とともにあるだけなら。だったら私たちは過少にも過多にも過剰にもならず、淡々と生きて行けばよいのではないか。

すべては、まことしやかに語られ言われ要請されてきた。その反動はまた別の反動を生んでいる。
虚偽の上書きに慣れ切ってしまっていいのか。私たちは間違ってはいないだろうか。

日米欧の株価だけが新型コロナ感染前までに回復し上昇しているのに、実体経済は逆にいっそう悪化しているではないか。つまり「コロナ」によって生活も仕事も、そして人間そのものの要不要が未来に向けて選別されながら、新たな二極化はコロナにも増していっそう拡大しているのである。

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