元村正信の美術折々/2020-05-13

明日なき画廊|アートスペース貘

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美術折々_273

試行は錯誤そのものなのだろうか

いまだ不条理演劇の傑作といわれるサミュエル・ベケットの戯曲『ゴドーを待ちながら』
(二幕からなる悲喜劇)。

ウラディミールとエストラゴンという二人の浮浪者が、ゴドーという人物を待ちながら
ふたりの会話は延々と続くが、ゴドーは来ない。
ほとんど何も起こらないと言ってもいいくらい空虚なまま、そしてゴドーは現れないまま
二幕の劇は幕を閉じるが。いやそれさえ「終わった」と言えるのかさえ分からないままに。
見えないゴドー Godot はだれか。それは神か、いや神はすでに死んでいる。では見えない恐怖か。
いろんな解釈がある。ゴドーとはいったい何か。ベケット自身も答えてはいない。

でもなぜ僕は『ゴドーを待ちながら』を唐突にも思い出したのだろう。
それはいまの私たちに蓄積され広がっているようなある種の〈空虚さ〉をどこかで重ねてみたのだろうか。
日々抑圧された欲望でさえ、それは私たちの自意識をどう歪めているのか。

劇中で「きょうは来ないが明日は来る」と少年は伝えるが、永遠にゴドーは来ない。
もしかしたらそれはゴドーではなく、ただ「明日が来る」からという意味だったのか。

このいまの、未知の感染いや現実をまえに。明日は本当に来るのだろうか。
疑心暗鬼のノイズが増幅されては、同調圧力の歪みとしてさらに敵対的に現実を歪めていく。

私たちは何を「待って」いるのだろう。たしかに「終息」には違いない。
だが終息を保障するものなど、どこにもないし。
いつ静まるとも言えない不安が、こころのどこかに棲み着いてしまったようだ。
私たちは見えない「ゴドー」を待ちながら、まだ試行は錯誤そのものなのである。

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