元村正信の美術折々/2020-01-27

明日なき画廊|アートスペース貘

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美術折々_253

工芸という、もうひとつの「自由」

先日の日経新聞朝刊文化面(1月18日付)は「竹工芸 現代アートに変身」という見出しで、大阪の竹工芸家・四代田辺竹雲斎(1973-)の仕事を取り上げていた。
このような飛躍的見出しは、作家としてはかなり気恥ずかしくなるものだ。竹工芸の世界がどんなものかは僕はよくは知らないが「現代アートに変身」という一語にそそられた。

四代田辺竹雲斎は、曽祖父の代から続く伝統的ないわゆる竹工芸の世界を踏襲するとともに、新たな竹の表現にも挑戦してきた。三歳から竹を削り始め、東京藝大で彫刻を学び、近年はニューヨークやパリでも大掛かりな作品を発表している気鋭の竹工芸家だ。昨年12月に大阪市立東洋陶磁美術館で発表した、幅8mm以下の竹ひご約1万本をハニカム構造で編んだ高さ約7メートル、重さ500キロにも及ぶ床から天井まで届くこの大作を僕なりに例えれば、天から吹き降りた龍の胴体のみのが大地でとぐろを巻いたまま、その先がまた天に吸い込まれていくさまとでも言えばいいのだろうか。それも空洞の龍が。

この作品を、巨大なインスタレーションといい、いまの時代ならではのアートだと同記事は紹介していた。まさにその通りだろうと思う。ではこれは用の美ではないからもう「竹工芸」ではなくなったのか。竹工芸家が手がけても、アートなんだからとうぜん芸術なんだろうと。もう一度見出しの「竹工芸 現代アートに変身」に戻ろう。

つまりこれは竹「工芸」が、現代アートになった場合の話ということなのか。それが単に竹という素材を使った現代アートなら「変身」にはならない。逆から言うなら「現代アートが 竹工芸に変身」という見方も可能だろうか。できない。なぜか。その多くは熟練も熟達の技も、用への修練もない「現代アート」は工芸に変身はできないからだ。工芸はいくらでもその技を活かして現代アートに同化はできる。だがその逆はムリなのだ。なぜならほとんど現代アートと言われるものは、ひとつの素材を極めようと追求するのではなく、関係をこそ素材にするから、可逆性がなく外延的でそれはどこまでも拡張・拡散するしかないのである。

だからと言って何もこの作品が竹工芸がアートに「変身」したのではない。つまり、竹工芸も拡張したから変身したように見えるのだ。境界がなくなったのではない。工芸もまたすでにアートなのである。そこに用の美が残ろうと、なかろうと。技とスケールと逸脱さえあれば、どれもが現代アートになってしまう、そんな時代なのである。

それでも工芸には、アートとしての表現を選らばなくてもよいもうひとつの「自由」があるのは、まだ幸せなことではないだろうか。

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