元村正信の美術折々/2019-11-12

明日なき画廊|アートスペース貘

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美術折々_240

元村正信「抗い結晶するわたしたちの」(4)

11月10日、ことしの個展も終わった。わざわざお越し頂いたかた、そしてお会いできなかった多くの方にもこの場をかりてお礼を申し上げます。いつものように、夏の宿題をひとつ片付けられたようで、いまは安堵している。

1975年の東京・田村画廊での初個展からもう44年がたつ。その半分の20年以上、ほとんど毎年、ここアートスペース貘を拠点に個展をしてきた。福岡という日本のいち地域に引きこもり、そこから一歩も出ることなく
ずっと制作を続けてきた訳である。かつての前衛芸術集団「九州派」のような、中央対地方という図式はとっくに僕にはない。ただおおくの衰退や崩壊を見てきた。いやそれは今も、やむことなく続いている。

1995年を前後とした時代の転換期は、日本においても「現代美術」の崩壊をもたらした。それ以後の、いわゆる芸術のアート化である。ここ福岡においてもそれは例外ではない。そんな中で、一人で制作をし発表を続けて
これたのは、何よりまず「アートスペース貘」という場所が何ひとつ変わらず、すぐそばにあったからだ。
まえにも書いたように、1976年のオープン以来、古ぼけたビルの2階に、43年間も続いてきたのである。

それは僕の幸運だった。まさに同時代をともに歩んでこれたのだ。ただ僕のように引きこもり閉じこもり外れた生き方が、これからの若いひとたちの手本になる訳ではないし、勧めもしない。福岡が、東京が、日本が駄目ならそとへ、海外へ出ていけばよいのだから。この国など捨てればよいのだ。

いま、芸術もまた崩壊しようとしている。いや未来があるではないか、と言われるかも知れない。たしかにまだ見ぬものが、いまだ生まれてはいないものがある。だが、これから生まれてくるであろう人たちに、はたして芸術は必要とされるのだろうか。もし必要とされる「芸術」がありえるとしたら、それはどんなものだろうか。

商品でもビジネスでも消費でも、たんなるツールでもスマホでもネットでもない、つながりでも友だちでも生活でも、名誉でも金でも地位でもない「芸術」とは何なのか。そんな「芸術」は、はたして必要とされるのだろうか。あるのだろうか。だれがそれに応えてくれるのだろう。

僕が言っているのは、過去の偉大な古典作品や芸術遺産の賑わいや再帰なんかではない。現在であり未来の「芸術」というもののかたちなのである。何が芸術で、なにが芸術ではないのか。マルクス・ガブリエルが『私は脳ではない』(講談社)といったように、もし「私は芸術ではない」と近い未来に、いや明日にでもだれかが宣言したとしたら、そう宣言した者こそ、きっと「何が芸術か」を語ってくれることだろう。そう期待したい。

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▲元村正信「抗い結晶するわたしたちの」2019より

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