元村正信の美術折々/2019-07-07

明日なき画廊|アートスペース貘

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美術折々_218

絵画ならざるもの[その六]

9月に福岡市内のあるギャラリーでの企画展のディレクションを担当することになっていて、この春先からずっと断続的にこれまでそのためのいろんな本や資料を読んでいる。そのなかで目にとまったものの一つに、気鋭の若手彫刻家であり彫刻研究者でもある小田原のどかが、「絵以外のすべては彫刻である」という興味深い発言をしていたのを知った。
(「彫刻と建築の問題 ─ 記念性をめぐって」小田原のどか+戸田穣の対談より『10+1 website』2018.08)

「絵以外のすべては彫刻である」という断定的なもの言いは、一見かなり乱暴にもみえる。しかしまた同時に、小田原の極論はまるで別ものであるかのように受け取られている〈絵画と彫刻〉の境界を、改めて問い直す発言にもなっている。もし「絵以外の」ものがすべて「彫刻」だとするなら、なにを彫刻といい何が彫刻ではないのかという、そして「彫刻とは何か」という難問の答えは、このひと言でかんたんに解けてしまいそうなくらい魅力的だ。だって彫刻とは、「絵以外のすべて」だからである。だがそこには、また別の難問が生まれてしまう。

つまりここで「絵以外の」という時に用いたその「絵」とは。では「絵画とは何か」というこれまたやっかいな問いを小田原のどかは再び引き寄せてしまった。しかしこの問題がいくらやっかいであろうと「絵画とは何か」はつねに問われなければならない。ただそこには、彫刻と絵画が正面から向き合って互いの起源を出自を尋ね問い詰めねばならない困難さがどこまでも付きまとう。でも彼女の問いは〈彫刻〉に向けられていながら〈絵画〉もまた召喚されることによってその境界を、困難な問いを厳しくも豊かなものにしているのではないだろうか。

いま私たちは数え切れないほどの、彫刻ではないものや絵画ではないものによって包囲されている息苦しさを抱えている。かんたんなことではないが、これは彫刻である、絵画である、と言えることがあるとするならむしろそのことの方に清々しささえ覚えるのではないだろうか。
そのためにも、私たちは何ものかに向けて〈問う〉ことを手放してはならないはずだ。
僕はそう思っている。


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