元村正信の美術折々/2018-11-17

明日なき画廊|アートスペース貘

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美術折々_177


商品とゴミ、あるいは作品


18日まで福岡市中央区天神の三菱地所アルティアムで開かれている「Local Prospects 4 この隔たりを」。
同展は、九州・沖縄とその周辺地域を拠点とする作家を紹介するシリーズの4回目で、「自らが切実に感じる
違和感、距離、差異といった “隔たり” に対して、新たな関係性のあり方を模索する表現に焦点を当てます」という主旨のもとに公募で選出された、いずれも1980年代生まれの、木浦 奈津子・寺江 圭一朗・吉濱 翔の3人の若手作家によるもの。

テーマとなっている「この隔たりを」に対して応募した作家がそれをどう解釈したか、ということだろうが。
見たところでは、テーマの大きさとそれぞれの作家の手法とのあいだの、曖昧さや齟齬のようなものとしての「関係」の方が目立っていたというべきだろうか。ひと口に〈隔たり〉と言っても、その捉え方や解釈は人によって千差万別だろう。確かに展覧会主旨にもあるように「日々溢れる様々な“隔たり”に対し、私たちはどのような在り方をするのかを問われ」ている。そうなのだ。余りに多すぎる〈隔たり〉の関係に、私たち人間は途方に暮れているから。

そこにある隔たりとは、例えば格差であり、疎外であり、分断であり、断絶となって人と人の間を引き裂き、
切り裂いてやまない底深い溝なのである。そんな強大な抑圧しようとするあらゆる力に対し、そこでは私たちの無力さだけが鈍く光っているのである。だからこそ、そんな私たちの〈在り方〉は、はたして〈多様〉なのだろうかと。

まさに「この隔たりを」前に、私たちは埋めようのない間隙をいま感じているのではないだろうか。そう思い
ながらふと目に留まったのが、参加作家のひとりである沖縄の吉濱 翔が自らの作品ために手書きでコメントした文章の中にあった次の言葉。それは「商品とゴミはどう違うのだろう?」というひと言だった。

「商品とゴミ」の違い。そしてその横に「作品」を置いてみれば、現在の芸術が抱える問題もおのずと浮き上がってくるというものだ。本来は商品とゴミと作品は、それぞれまったく別のものであるはずなのに。商品は時間を競いながらゴミ化するし、あるゴミは再生もされ商品化されるし、作品にもなる。また作品はそのまま売買され商品になり、あるいは売れることもなく廃棄されゴミ化するのである。そしていまやどんな商品も作品化されうるのだ。

彼のコメントには、商品とゴミは同じだとは書かれてはいなかったが、「商品とゴミはどう違うのだろう?」という素朴な問いにもまた、それぞれが違うものだという例の美しきものと醜きものとの幻想関係が影を落としているように思えなくもない。僕なら商品とゴミと作品に違いはないけれど、何を見ないことにするかというその一瞬において、どれかが際立って見え他のものが見えなくなってしまうだけだと、答えておきたい。

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