元村正信の美術折々/2018-03-16

明日なき画廊|アートスペース貘

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美術折々_137

冷たい雨にさそわれて

私たちの生々しくも、リアルであるはずの「現実」というものが、なぜ虚偽や欺瞞あるいは隠蔽によって、
それらが何もなかったかのようにことごとく「虚構化」されてしまうのだろうか。

「疑いもなく、われわれは人間に苦しんでいるのだからだ」といったのは、ニーチェだが。
(『道徳の系譜』岩波文庫)

ただそれが人間どうしの苦しみであるにしても。しかしこれが「人間どうし」ではなく、ある一群の人間が、
別種の人間というものを捏造、あるいは仮想化し、いやもっと露骨にいえば、その「虚構化」が、おなじ生身の人間そのものを無限に「腑分け」した結果をもたらしたとするのなら、ニーチェは、いまどう答えるだろう。

今朝のような冷たい雨にけぶる春霞が立ち込めた視界のきかないぼんやりとした景色に、ときに僕はひとり理由もなく苛立ったりする。それはどこか大事なことを曖昧にしたり、すべてを帳消しにするかのような、自然の〈生理〉をおぼえるからだ。

おそらくだれもが自然というものに時として怖れおののき、またいつくしみそれをめでつつ、そこに様々な「美」を見い出しながらも、私たちが《自然》だけでは済まなかったことの意味を考えてみたりする。

現に自然に対峙してきた人類のあらゆる《技術》というものがそうであったし、そこから自立した《芸術》も
そうだ。だがいまとなっては、このあるかなきかの「芸術」も、心もとない。そんなだから過去の「芸術遺産」は今や引っ張りだこで、もてはやされる。それにくらべ、現在の「アート」の多くは、消費原理というものに
ほとんど無防備であり、無抵抗にしか表現されていないのではないか。

自然にも人工にも抗ってきた人間というもの。自然でも人工でもない人間というもののありよう。
もしかしたら芸術というものは、それに対する未来への問いをあらかじめ用意することによって《芸術》の役割と言えるものを持って生まれたのではないかと、思ったりもする。

しかしそれにしても、その「役割」が実現されているとはいまだ言いがたい。


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