元村正信の美術折々/2018-02-28

明日なき画廊|アートスペース貘

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美術折々_134

荷物から遠く

いつの頃からだろうか。都心を歩いていても、見た目にも買ったばかりの重い荷物を持ち歩いている人をほと
んど見かけなくなった。多分この10年以上くらいのことだろうか。押しなべてみなバッグひとつで身軽に見える。なぜだろう。

それはマイカーで持帰るのはもちろんだが、郊外に出現した大型モールに車で出かけまとめて買い物をしたり、それに宅配とセットになったネット通販の利用増加などで、自分の手で重い荷物をわざわざ持ち帰る必要がなくなったからだと思われる。さらに「人生100年」という、まるで不死にも近い未聞の〈生活と労働の永久化〉が、そしてその生活と労働の境界の無化への傾斜が、消費にもある種の変容を強いているのではないだろうか。

これは、おそらく自分の荷物はじぶんで持ち、運び、あるいは時に互いに助け合い持つ、という近代まで続いた伝統的な生活慣習や身体感覚がほとんど〈外部化〉してしまったということだろう。つまり〈消費〉という経験がまさに身体化したとでもいうのだろうか。消費を見えない〈消費〉に変える。文字通り「ついやして消し去る」。物として残さず、跡かたもなくモノを食らう、肉体化する、という新しい文明生態の有り様。そのことが、私たちの感覚を未知のものとして不安にも鋭くし、一方でさらに退行するように鈍くしてやまない。

いまの、「IT(情報技術)やAI(人工知能)を使った」制度化や一方における極度に楽観的な奨励や偏向が、
僕にはこの〈消費の身体化〉をいっそう加速させているように思える。その意味ですっかり色褪せてしまった「現代」というものは、近代の終焉が生み出した「外部」としての仮象でしかなかったのだと、思わざるを
えない。

同じように私たちの芸術における「仮象」としての「現代美術」は、近代の終焉(近代の外部化)によって崩壊したのだと僕は何度も言ってきた。〈芸術〉というものの歴史の「進化/退化」の果ての、少しばかり古風な
言い方をかりれば、「美の生活化」は同時に「生活の美化」をもたらした。自然のみならず、つまりあらゆる
物が、商品が、「美」の対象となり当事者となった訳だ。これは芸術と生活が混濁し、同じく在ることによって
区別がつかなくなってしまったということなのだ。現在盛んな「アート」と「地域」の共生や活性化も同様だ。芸術と生活の混濁は、ものみな「アート」という眼差しで無根拠な戯れを強化したのである。

でもなぜ、芸術と、そうではないものとの区別がつかなくなってしまったのか。「美」への問いが、必ずしも「美」のことではなくなってしまったいま。「美」と「芸術」は互いに、それぞれが必要とするに「値するもの」なのだろうか。しかし、だからといって《「美」の問題》が消滅した訳ではない。「芸術」の概念〈以後〉の時代において、これほど「見る」ということが「見ない」ということと全く同義になってしまった時代が果たしてあっただろうか。それはまた「美という消費」の身体化でもあるだろう。

「美」というものの崩壊と、それへの反論としてのさらなる誇張への疑い。これはいまの私たちの正直な戸惑いではないだろうか。でもその〈動揺〉こそが、これから《ありうるかもしれない美》への、未来というものへの、いちるの望みなのかも知れない。

だが、ベンヤミンが「真のアウラは、全ての物に現れる」と言いながら「美は被いの内にある対象である」(「ゲーテの『親和力』」 、1922年)と、アウラから「美」をどこか遠ざけたとき。僕はこのことの含意を
いまも考えるのだ。等しく誰もが触れえるかもしれないが、誰もが触れることができない《美》というものの
可触の不可能性、あるいは不可視の可能性への問いを。

すでに私たちにとって「美」もまた「荷物」のありようと同じように〈消費の身体化〉の一部となってしまった今。つまり「美」も道具化され仮想化されている現在。いまなお、私たちはベンヤミンが言ったような《被いの内》にどのように触れ、かつ見ることができるのだろうか。だとしても、それを何と呼べばよいのだろうか。

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