元村正信の美術折々/2017-08-14

明日なき画廊|アートスペース貘

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美術折々_109

夏に「花火」を、もう少し

よく「花火芸術」とか「芸術花火」とか呼ばれたりもするが、これはエンターテインメントとしての、ひと夜の
楽しみのこと。それでも花火師が打ち上げる美しい大輪の花火を「芸術」だとする人もいるだろう。

アドルノは花火を「芸術」だとは言ってはいないが、『美の理論』のなかで「芸術作品の原型と言えるものに
花火があるが、花火は束の間のものであり、[中略] 花火は本来の意味における天象(アパリシオン)に
ほかならない」と言った。

天象とは、太陽、月や星などの天体の現象のことだが、突発的現象あるいは不意に出現したりするものをも
意味する。

そこに「芸術作品の原型」をみるというのは、美的に儚いものや現象の瞬間それ自体として炸裂する花火に、
芸術作品の「破局的な実現」を重ねていたからではないだろうか。だからアドルノは「芸術作品は物でありな
がら、現象として出現することが必要なのだ」とも言う。逆にそのことは、「芸術」というものは、そのような「花火」にどれだけ近づけているのか、と問うている。

さらに「芸術作品において超越的なものに変えるのは瞬間的なものなのだ」と付け加える。

「花火」と「芸術」、この余りにも人工的なものの似姿。花火は芸術になりうるかも知れない。しかし芸術は
花火には成れない。だからこそ芸術にとって花火は「原型」なのである。

ただ芸術じしんにとって、天象(アパリシオン)への変容は、「存在することがないもの」が、「存在することも可能でなければ」ならないのことを試みられるのなら、その時わずかなりとも「花火」に近づけているのかも知れない。

花火は突然夜空に現れる。では芸術はどうなのか。クリストフ・メンケは言う。「芸術作品において何かが
われわれに現れるのではなく、(われわれに)現れる当のものが芸術作品である」と(『芸術の至高性』)。
たしかに、花火「において」何かが現れるのでない。花火「が」現れるのだから。この意味でも花火は芸術作品の「原型」なのだ。

どちらもが美的経験には違いない。「芸術」が、突然現れる。ただそれを私たちは「花火」のように感受できるとは限らない。やはりどこか、「芸術」には〈盲目〉を強いるところがあるのではないか。それが「芸術」を
芸術以外のものと分け隔てるものの一つである美的否定性の経験という、〈理解不可能〉で特異な経験では
ないだろうか。

「花火」と「芸術」。それぞれの〈美的経験〉の差異は見る以上に、思う以上に隔たっているように思われる。

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