元村正信の美術折々/2016-11-01

明日なき画廊|アートスペース貘

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美術折々_73

「あいだ」すらない日常

アートスペース貘での個展。元村正信[その逆説的盲目]も、先週10月30日(日)で無事終了した。
お忙しい中、多くの方にご覧いただき、このブログをかりてお礼申し上げます。

いつも見ていただく方、久し振りのかた、そして初めて見られた方と、さまざまである。
当然、いろんな見方、感じ方があったのだろうと思う。僕が考えていること、思っていることと
まったくかけ離れていたり違っていたり、あるいは重なったりと、いつも思うが、ほんとうに見る
ということの千差万別を感じる。

何かをくつがえし続けたい。一見「絵画」という形式を取っているが、それは
「絵画ではあるが、絵画ではない『絵画』」でありたいというのが、僕のたくらみなのだ。

私たちは、はたして見えているのか。むしろ見ることは何かによって阻まれているのではないだろうか。
目を見ひらいていても「見ることの不可能性」は、この世界に満ちみちているのではないか。
[その逆説的盲目]とは、そのような不可能性を凝視することによって、見ることを拒むものへの
根柢的な[異和]を語ろうとするこころみでもあるのだ。

本当は「描かれなかった」ものこそが、「描かれた」ものだと僕は思っている。

これは、現実(リアル)と虚構(フィクション)との関係にも似ている。すでに私たちの世界は、現実と虚構
という二分法や二項対立の構図では成り立たない。例の「ポケモンGO」もそうだが、仮想現実(VR)といい、
拡張現実(AR)というものも、じつは「仮想の現実」や「現実の拡張」なんかではなく、
私たちの〈 現実は、そのまま、同時に仮想 〉でありあるいは〈 仮想は、そのまま、同時に現実 〉でもある
という状態に、すでに入っていると僕は考えている。日常はどこかで破裂しているのである。

あの近松門左衛門が語ったと伝えられる『虚実皮膜論』のなかで、
「芸といふものは、実と虚との皮膜の間にあるもの也」という言葉があるが、かりに芸というものはいまも
そうだと肯定しても、しかし私たちの日常には、虚と実のあいだには、もはやその「あいだ」すらない。

このような世界の中で、取るに足らない絵画でさえ、「描かれなかった」ものと、「描かれた」ものとの
関係を〈逆説的〉に語らずして、描かれずして、いったいどう描かれるというのだろうか。

個展を終えた久しぶりの休日。少しだけ北風の寒さに身を構えながらも、ほっと一息を付いている。

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