元村正信の美術折々/2015-12-23

明日なき画廊|アートスペース貘

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美術折々_30
 

美術以前の話

福岡市博多区千代の「ヴァルト アート スタジオ」で、月1回土曜夜に、この1年間(12回)に渡って継続されてきた、小林清人(ジャーナリスト)による連続講演。
『小林清人のちょっと聞いてくれ_美術以前の話 2105』が、12月19日の最終回をもって終了した。
おわって見れば、みじかくもあっという間の刺激的な「時間」であったと思う。

カント、シラーやゲーテ、ベンヤミンそしてアドルノほか多くの哲学者や思想家、文学者、詩人たちから、小林自身が受けた影響やそこからの思考を引用しつつ、それら先達の言葉を散りばめながらの彼独特の探求の語りは、決して平易とはいわないが、いやむしろ毎回難しさに充ちみちていた。

美的経験とは何か、芸術の自律性から倫理の超越性やこの世界の意味にまで。文字通り「美術以前」の、さらに芸術の外部の、いま生きることの問いにまで話しは広がっていった。もとより収束の着かない問題に、敢えて踏み込むことで、現にいまあるものに同調し現状肯定するのではなく、これから「あろうとするもの、なろうとするもの」を希求する、その問いの語り口は一徹なほどであった。

もちろんこれは、歴史的アヴァンギャルド以後の100年の「芸術」が、「自由化」という名の制度化とエンターテインメント化とのあいだで、たえず動揺し、拡大と収縮を繰り返しては芸術じしんが、社会の中心と周辺(栄華と廃残)とのあいだにぶら下がり、今だうろたえ続けているのを批判的に踏まえてのことであろう。

グローバリズムの本質というものが、あらゆるものの貧富化という二極化を容赦なく押し進める資本の絶対優位であるのなら、そこに向けて限りなく同化して行く現在の「芸術」の先端への自己批判的視座なくして、いったい何がこれから先、作られ、表現という名において実現されうるというのか。かつてアドルノに「今日、作品と呼びうる唯一の作品は、もはや作品ではない作品である」(『新しい音楽の哲学』)と言わしめたもの。むしろアヴァンギャルドの歴史的結末は、皮肉にも〈芸術の道具化〉という、こんにちの虚しい芸術市場の活況として引き継がれてしまった。

しかしそれでも、私たちの「芸術」は、そして「美術」は、いまもって〈自らを越え出るもの〉として試され続けている。小林清人の、この1年間の晦渋な、だが切実な警告は、揺らぐ「芸術」に向けられた、まことに薄氷を踏みしめるようにしてなされたものだ。永遠の〈孤塁〉というものは、いつも微かな光りを帯びて、来るべき者に対し開かれているのである。

そのような、小林清人 連続講演の場を提供してくれた、ヴァルト アート スタジオのオーナーである森夫妻の辛抱強いこの1年の援助にも、ねぎらいの言葉を贈りたい。毎回若い熱心な参加者から年配の方まで、それぞれに触発されるものが多々あったに違いない。僕もその聴衆の中のひとりとして、ささやかではあったがこのような熱い講演が1年、12回続いたことを、まだ見ぬだれかに知らせたかった。終わってしまったけれど、彼からの多くの警句とそこから受け取った自分にとっての宿題を、いま静かに振り返っているところだ。

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