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アートスペース走り書き_02
亀川豊未 展「Where are we from」 [〜2月2日迄]
足を踏み入れると、樟の芳香が ほんのりと漂う。
野太くまっすぐ伸びた首にすわった顔が天を仰ぐ。
若手彫刻家・亀川豊未の木彫だ。
若く丸みを帯びたその顔は薄黒く塗られ、そこにはいくつもの条痕が走っている。
ひたいから眉間あたりに集まる青い顔料の斑点は雨滴跡の暗示だろうか。
とじた目のまわりだけが白く化粧を施されその窪みからこぼれたものが
ひと筋の涙のように首すじをつたい落ちていく。
荒く彫りそして塗りまた鋭く刻めば、あとは祈るように待つしかない。
そうだ、天のみをひたすら見つめるわが身の切っ先が、浴びるものすべてを。
今回の個展のタイトル「Where are we from」は、どこからきたの。
『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』(1897-1898)
作品にそう名付けたのは、あのゴーギャンだ。
もちろん彼女はゴーギャンではない。それでも「私は何のために生まれたのか」と
自問しつつ、ノートには「彫刻することで何が起こるのか」としるした言葉があった。
自分とじぶんではないものが、日々刻々と立ちかわり宿ろうとしているのだろうか。
そこには春霞のような淡い薄桃色の和紙を貼った木箱の台座が
彼女が全身で彫り刻んだものを、じっと支え、やさしく持ち上げていた。
(元村正信)
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アートスペース走り書き_01
小島拓朗「affair」
今年から始まったこの小コラム「アートスペース走り書き」。
1回目は、若手画家・小島拓朗の個展[〜1月19日迄]から。
木製パネル、綿布、白亜地に油彩で描かれた絵画。それらは雑然とした都市の遠景だけれど人影はまったく見あたらない。この寂寞感はどこからくるのだろう。彼がいう「不安定で空虚な思いを克服したいという望み」が「現代」のものなのか。それとも彼ひとりのものなのか。
埋めようのないわびしさや物哀しさは、きっとだれにもあるだろう。そしてだれもが見ているけれど、名乗ることのない匿名の眼差しがここにはある。その「風景」には妙な静寂とどうじに隠れた反感が潜んではいないか。
小島拓朗の絵画は、映像をとおして見るような既知のリアルさを持ちながら、むしろそのリアルさを打ち消し否定するように描かれている。それを写実絵画の超絶的なリアルさと比べてみればいい。たとえば同じモチーフを描いたとしてもベクトルがちがう。つまり描く志向性がすでに違うのである。ここには完成度や美への崇高さとはことなる、むしろ反写実的な「負の痕跡」としての風景が現れているように僕には見える。それを彼が意図しているかどうかは分からないが。
これらの作品にも見られる、くぐもった不安や空虚を、はたして私たちは「克服」できるのだろうかと思う。
とあるビルの上から眺められる、似たようなビルの群れのなかにいる一人のワタシ。
そこに注ぎあるいは注がれる眼差しは、匿名のままいつまでもこの都市をさまよっていられるのだろうか。
(元村正信)