calendar_viewer 元村正信の美術折々/2017-02

2017/2/22 (水)

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美術折々_87

ある蔓延への、感性の抵抗として (1)

いつの頃からだろうか。この国では、すっかり「芸術」を「アート」と呼ぶ習わしになってしまったのは。
(僕はそれを、1990年代後半の「現代美術」崩壊の頃から、と言ってきたが)

そもそも西洋の『ART』という概念を明治以後、日本という近代が、まずは『美術』という語として翻訳し、
その後「芸術」という語として受容していったことは、すでによく知られるところだ。
今から140年少し前のことである。

だがそこには「翻訳」ではよくある転倒がここでも起こっていて、当時の「美術」には、いまでいう「芸術」(音楽や文学、他を含む)の意味が込められていたという。おそらくそこでは、私たちが〈近代〉と出合うまえの、近世つまり江戸時代までの習性に根付いていた「美」や「芸」あるいは「術」といった言葉に、西洋の概念とはまったく異なる翻訳しがたい「感性」の意味があったからだと僕は思う。

すこし肩苦しくなってしまうが、ここを押さえておかないと、現在の日本での「美術」、「芸術」、「アート」というそれぞれの言葉の、すぐれて意図的な用いられ方の違いが曖昧になってしまうからだ。この国の〈現代〉において「ART」の翻訳語としての「美術」、「芸術」という言葉が、なぜその翻訳を無化してしまうかのような表音語“アート”に、“逆翻訳”されるに到ったのか。

むろん巡りめぐって「ART=アート」になったのだから、グローバルな現在、結局同じでよかったではないか、という人もいよう。しかしではなぜこの国の〈近代〉が、〈翻訳〉を必要としたのだろうか。私たちの母語は、なぜそれまで考えもしなかった「美術」や「芸術」という言葉を、概念を、生む必要に迫られたのだろうか。

僕は、やみくもに「文化」に敵対していないのと同じように、何も「アート」というものに正面から敵対して
いる訳でもない。

ただこのような「アート」に込められた、そこにたっぷりと含ませられた現状肯定的態度や、「アート」という語によってあたかも無かったかのように、何ら問われることなく忘却され続ける「美術」や「芸術」の内実を、超えるべき現在を、ただ問いたいと思うのだ。私たちの「美術」も、「芸術」の概念も、いまだ自明ではない。私たちはなおも、定義さえできないでいるのだ。

「アート」という“逆翻訳語”がいま現在、じつは原語の「ART」と、どう同じ意味を担い、どう異なるのかを
語ってゆくために。そしてまた、この国ではなぜ「芸術」ではなく「アート」というカタカナ言葉で流通しなければならないのか。そんな、ささやかな問いとして、僕なりの〈抵抗〉を、少しづつこれからも語ってゆこう
と思っている。

だれの目にも明らかな、この圧倒的な大きな流れに、その巨大な仕様の蔓延に対する、僕の〈異和〉として。
いつかどこかで、だれかに聞き取られるまで。

2017/2/12 (日)

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美術折々_86

「塔」から離れて

2月2日(木)付 日本経済新聞 朝刊文化面に、佐賀県内の板金塗装会社社長の馬場憲治という人の寄稿文が
載っていた。

僕は知らなかったが、この馬場氏は佐賀では有名な方らしい。「佐賀のエッフェル塔」として地元では親しまれているこの塔の制作者なのだ。見たことのある人もいるだろう。その名のとおり「エッフェル塔」というだけあって、あのパリの本物を14分の1サイズ、高さ23mの大きさで「再現した」ものだという。

何でも今から40年以上前の、20代半ばに初めてパリの本物を見て「心から憧れ、つくってみよう決意した」
そうだ。廃材などの鉄板を使って「私がつくった」というから凄い。1982年の初代の塔から、1999年に完成
した現在の塔まで約53トンの鉄鋼を使ったという。そこに注がれた技術はもちろん、その情熱とそれに費やした私財は半端ではないはずだ。

僕が興味を持ったのは、この「作品」が何より「佐賀のエッフェル塔」として根をおろしていることだ。すでに完成から18年が経つ。ひとりの人間が一徹なほどに手放さないでいる、無為と作為が織りなすものの痕跡。
これを、まさに「アート」などと、やぼなことは言うべきではない。これもまた「近代人の模倣」のひとつではないだろうか。崇高なる「塔」へのあこがれが凝縮されているようだ。

「塔」というなら僕にはもう一つ、ずっと気になっている塔がある。以前、TVで見て忘れられないでいる長崎県佐世保市にある通称「針尾無線塔」だ。これもよく知られているらしい。300m置きに正三角形に配置された3本の塔があり、各コンクリート製、高さ約135m前後、基部直径約12m、厚さ76cm。1922年に旧日本海軍の無線塔として建てられ、すでに20年前、1997年に電波塔としての役目を終えている。

その後、2013年に国の重要文化財に指定され、現在は「旧佐世保無線電信所(針尾送信所)施設」として一部
は一般にも公開されている。現存する自立式電波塔跡としては高さ、古さとも日本一らしい。完成からすでに
なんと、95年もの歳月を刻んでいる。今後地元では「文化財」としての、この塔を中心に一帯の公園整備化等を計画しているという。

ここで僕が関心を持つのは、当初軍事目的だった塔が、今では何の機能も持たない「純粋塔」として残って
しまったということだ。基底部から突端部までゆるやかな円錐状に伸びる、その実に無駄のないストレイトな
美しさ。一度はこれを、巨大な「彫刻」と呼んでみたい気もするが、それは敢えて控えておこう。

しかし、「文化」というものは何故にこうも、本来そうでなかったものを内面化させる力を持つのだろう。「塔」だってそうだ。フロイトが言ったように、なぜ文化は攻撃性を自らの中心に取り込み、内面化してしまうのだろうか。「良心」に変えてしまうのだろうか。

もし今も「芸術」というものが、そんな良心というものへの、やましさへの抵抗を宿しているのなら、
「芸術」はそんな「文化」というものと、どこかで対立する態度を取るべきではないのだろうか。
それもいまだ「芸術」が可能だとしてのことなのだが。

2017/2/7 (火)

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美術折々_85

ブリキの土地

車いち台、人っこひとりいない、だだっ広いばかりの駐車場。
いや正確には、僕がいた。

きっとこんな日は誰も来やしないのだ。
そう決めつける、僕もいた。

とある岳のふもと。崖下には白梅の咲く小さな畑があり、そしてその先の海には
すぐにも手が届きそうな、灰色の能古島が見える。

もう何年になるだろう。こうしてここに一人立ち、振り返っては、
いろんな「海」の色を見てきた僕は傍観者。

けっきょくこの場所が、彼の棲みかになった。彼が心から愛した「土地」が、彼をすてたのだ。
愛することと、愛されることは、どこまでも交わらない。

ただそこに「愛」があるだけの。ほんの、ひと時の、「愛」を介した交わらない交わり。

そういう、ほんの繰り返し。

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