calendar_viewer 元村正信の美術折々/2020-12

2020/12/30 (水)

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美術折々_312

さらなる高みと深みへ


ことし何が変わったのだろうか。いま何が変わろうとしているのだろうか。むしろ僕には変わらなかったことの方が、重く感じられてならない。

たしかに、仕事が学校が収入が生活が否応なく変わってしまった人がいる。でもなぜその多くが、いつもこのように不均衡にしか変わらないのだろう。

一方できょう株価は1989年のバブル以降、なんと31年振りに27400円を超す高値をまた更新した。これは国際金融市場自由化の25年を跨いでいるのだ。
異常過ぎる。このコロナ下にあってである。
あれほど感染や逼迫や自粛そして貧困が格差が言われているのに。期待値といわれるが、誘導され捏造された「期待値」ではないかと勘ぐりたくなる。
投資家は株主はそれに投資する企業は、どれほどの財を得てその笑いを噛みころしていることだろう。

それでも富の再分配は偏ったまま冷酷を通り越して、無感覚でさえある。つまるところ《人間の非人間化》は、富裕な者にも貧困を生きざるを得ない者にも、ここでは平等に当てはまってしまう。

ステイホームのお願い、医療逼迫、コロナによる生活苦の忍耐と 31年振りの今のバブルの高笑いは、つり合っているのか。はたして無関係なのか。欺瞞ではないのか。

2020年も終わるが、けっきょくこの一年は新型コロナ危機などではなかったのだ。ただこの危機に乗じて別世界バブルが再来し、偏った富が最高値にまで達し片寄った蓄財を囲っただけだ。

何も知らされていないのである。他者の身内の、あっけないほどの急な死がどれほど積もっても。

いまから「経済を回しに行くんですよ」という街頭での、意気揚々とした若い人の言葉が忘れられない。彼が感染をも恐れず身をもって回そうとしているその経済が、彼の遥か頭上で巨大な富を吸い取っている。

僕はこうしてここで今年も、何かに怒りをぶつけるようにして拙い言葉を紡いできた。でもその虚しさに気づかない訳ではない。しかしとうぜん「芸術」は物質的な作品だけではないし身体も行為もそして無限の言葉も、芸術には託されていると僕は思っているのです。

この一年お忙しいなか、元村のこの辺境のようなブログをのぞいて頂いた皆さまには心からお礼を申し上げます。本当にありがとうございました。

2021年も、さらなる高みと深みを同時にそして共に歩んで行きたいものです。どうぞよいお年を。

2020/12/25 (金)

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美術折々_311

涙で不幸が消えるなら


感染拡大、規制と緩和そして自粛と協力の繰り返しで来たこの一年も、やがて暮れていく。

それが、見えない〈新型コロナウイルス〉というものに振り回された私たちの2020年だった。

しかし「だった」と言っても終わった訳ではないし、たとえ一夜明けても何ら変わりはない。もしかしたら、どこまでも続くのかも知れない。

都合よく高台から「静かな年末年始を」と、呼びかけられてもなあ。賑わいと残酷でグローバルな世界を、成長を拡大を実現したのは、だれだったのか。お忘れか。

コロナ危機で明らかになったもの。せわしなくコロナ以後と言われるが。では何が隠されたのか。結局いっそうの分断と格差と貧困と、明暗と差別を際限なく生み出すことの契機にはなった。

そして誰にとっても、つながっていたはずの幸福と不幸は乖離してしまった。もう幸福と不幸は、出合わないのだろうか。すれ違うばかりになったのだろうか。
不幸はずっとどこまでも、不幸のままなのだろうか。

たとえばオンライン、ITや金融は成長を続けるが、オフライン的製造・小売・販売は戻らない消費として減退していく。人件費抑制・効率化・合理化を裏返せば、仮想化・自動化・無人化への転換の過程だ。

私たち人間は、どこまで必要か。
また、どのようにしか必要とされていないのか。

虚偽、欺瞞、搾取は、ことばにも行動にも、そして理念にもそこかしこに溢れかえっている。そんな中でさえ私たちは、きょうもどこかで生まれ成長し、大人になろう、人間になりたいと思っているのに。

哀しいかな私たちは、なんとも、けなげであり過ぎはしないか。人はきっと、いくらでも泣き続けられるだろうが。
もし涙で不幸が消えるなら、幸福になれるのならばだ。

2020/12/20 (日)

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美術折々_310

牛島智子の個展「40年ドローイングと家婦」のこと


「いまは雪の世界です。真っ白な景色を窓から眺めながら冬を迎えています」とある人から暮れの知らせが届く。3年前に亡くなった札幌の造形作家・小林重予からの手紙にも、よくこの「真っ白い世界」の眩しさからの逃避願望があったものだ。僕はと言えばここ南国・福岡の寒さでさえ、いつも以上の怠惰な生活に閉じこもり気味なのが情けない。

そんな日々の中どうしても見ておきたいと思っていた美術家、牛島智子の個展「40年ドローイングと家婦」(福岡市美術館市民ギャラリー/12月15〜20日)に、昨日やっと駆け込めた。僕には久しぶりの牛島智子だった。牛島は1958年生まれだから、僕より5つ年下になる。1980年代から東京を始めその後は筑後・八女を拠点に活躍してきた作家である。いわゆる「現代美術」を経験し、またその崩壊を見てきた世代の一人だ。

その作品の、散乱するカラフルな色彩はモダニズムの奔放さとでもいうようなものを残しながら、一方で描かれるものは天地の開けへの土着的伝承や生活とのつながりを想起させもするが、扱う素材もキャンバスにとどまらず布や和紙、ロウソクなどへと広がり、いつ見ても楽しく解放される気がする。「作りながら壊し、こわしながら作る」という彼女にとっての、そんな時間の積層が入り組み飛び火しそのまま大小のモノや作品になっているようだ。

本当は、ちゃんと丁寧に彼女の言葉を聞き取りながら、これまでと今を踏まえて牛島智子の作品の変遷とその魅力について書いて見たいと思っているのだが。でもなぜ今回、このような飛び地のように半端な形でしか発表できなかったのか、残念でならない。そしてそれが偏った評価か傍観で済まされてしまうのを思うと。でもそれは彼女自身のせいではないと僕は思う。「地方」というものは、とかくそういう誠実さを飲み込んでしまうものだ。

せっかくの「40年」展がこのように短い期間、それも作家の自主企画でしか見れなかったのが悔やまれる。それでも、彼女は苦にするでもなくその理由を笑って答えるに違いない。それほどに牛島智子の作品は、世界は、これからもなお溢れるように生まれてくるだろうから。

2020/12/9 (水)

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美術折々_309

鬼のような心が


空前の大ヒット作となっている『鬼滅の刃』。いまのコロナ下にあって子どもから大人まで熱中させるこの物語は、日々の息苦しい現実をどう反映しまた受け止められているのだろう。わずか4年前に週刊少年ジャンプで連載が始まった一編の漫画が、TVアニメになりさらに劇場版になり、コミックからゲーム、DVD、そして今や社会現象にまでなってしまった。それだけの理由は色々あるのだと思うが。

たとえばそれを「人間を鬼にする現象そのもの」で「人々を幸せにできない社会構造」(岡本 健・近畿大准教授)だといい、また藤本由香里(評論家)は「多くの犠牲を覚悟して勝ち目がない鬼との戦いに耐える物語」だという(『鬼滅考』西日本新聞連載より)。たしかにそのどれでもかも知れない。

非人間である「鬼」と「人間」とのバトル。だが僕は思う。ここでは人間だって超人間であり、それはほとんど鬼ではないのか。では人間と鬼はどう違うのか。私たちは「鬼」ではないと言えるだろうか。そのような人間の鬼との戦いがなぜ共感を得るのか。おそらく近代以前の、遠くは〈異界〉に宿る霊のような存在であったものが近代化し現代化し世俗化した果てに擬人化されたあげく、人と区別がつかないものにまでになってしまったことは、私たちの〈生〉そのものが幻想/仮想化したからではないかと思う。あるいはこの資本主義の下でいつの間にか私たちはケモノ化し、自然に「鬼」になってしまったのだろうか。

あたらしい残酷がまた日常化したのだろうか。あなたにとって「鬼とは?」という質問に、『鬼滅の刃』を見たある小6生はこう応える。「残酷と美しさは紙一重の部分があるのかも」と。私たちは近代以降、主体を持った個人としての「人間」だと教えられ思い込まされ続けてきた。だが本当に人間なのか、人間になれたのだろうか。

僕からすれば『鬼滅の刃』は、仮想された鬼と人間との戦いではない。そこに人間のどんなに無垢な優しさを、幸福への願いを重ねても。人間どうしの葛藤であり非人間化の残酷な闘いなのではないかと。私たちは幸せになれるのだろうか。この余りにも理不尽で差別と格差と貧富が、そのどれもが肯定されそれらを甘受し続ける世界の中で。

先の小6生が、この物語で繰り返される「残酷さ」に対して、なぜ「美しさ」というものの紙一重を思ったのか。それは作画上のカッコよさや文字通りの美しさだけではないと思う。それはおそらく「美しさ」というものには、どんな暴力や現実に否定されたとしてもそれに対置できるつよい〈価値〉があると、どこかで感じているからではないだろうか。それだから私たち大人こそが、なぜ「美しさ」につよい価値があるのかを、答えねばならないはずだ。

テクノロジーの進化は、次々と私たち人間から活動の仕事の場を奪い人間を「非在化」して行こうとする。いや労働が禁欲的で神聖なのではないし、テクノロジーのせいでもない。人間じしんが同じ人間であるはずの私たちを、別の人間ではないものへと非人間化している。最終話で、無惨は「死」をまえにして産屋敷輝哉の「ひとの思いこそ不滅」という言葉を思い出しながら「人間化」したのだろうか。けっきょく逆に炭治郎は「鬼化」してしまうのである。しかし、ひとの思いは不滅だろうか。思いだけが空転してはいないか。

負けないであきらめないでと、私たちの一生というものは励まされる。だから、どこまでも「勝ち目がない鬼」というものに立ち向かう。ただ「鬼」とは自分にも向けられているのだ。そんな「思い」や「優しさ」という犠牲だけでいいのだろうか。僕は、鬼のような心がもっとちがうものに向けられてもいいのでは、と考えたりもするのだが。どうだろう。

2020/12/3 (木)

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美術折々_308

人間ではないものとの未来


「アートは、アートで、アートが、何かなんて分からないけれど、とにかくアートがあることによって」と誰もかれもが繰り返し吹聴し実践しているあいだに、時代は非アート化の志向を強め、ついには〈ゲームの時代〉がうたわれるようになったようだ。日経新聞朝刊文化面も11月24日付から5回にわたって『ゲームの時代』と題して連載を組んでいた。

アートで言えば、かつてのハイアートとローアートといった図式を曖昧にし無効にしたのは、知られる通り村上隆的な「スーパーフラット」だ。日本的ポップやアニメといったサブカルチャーを積極的に取り入れることで、「現代美術」が孕んでいた自己言及性や自己否定的超克への問いを喪失させ、ものみな「アート」化してしまった。

それは一方で1990年代後半以降のポケモンやゲーム、アニメで育ってきたデジタル表現世代の支持がそれまでのサブカルをメインカルチャーへと押し上げた時代でもある。もやはアートであるこだわりも必要もない表現、いわば非アートへの嗜好だ。それらが「ゲームの時代」としていま様々な領域に影響を与えているのではないだろうか。

現在のコロナ下のように、会話やコミュニケーション、そして表現というものが次々とオンライン化される中で、アートはもちろん音楽、映画や演劇、文学までもゲームとの融合を試みている。2016年にリリースされ世界で10億人がプレーしたとされる「ポケモンGO」は、現実の空間をゲーム化して見せた。もはや現実と別の虚構があるのではない。仮想というフィクションの中に、私たちの現実の方が引き込まれているのである。

現実は不公平に違いないし、それへの反感や反発もあるだろう。ただゲームの中での「個人」は圧倒的な没入感に浸りながら、ある種の公平感をも得るし、また同時に支配と従属をも体験することになる。同連載で人類学者の中沢新一は「ゲームは最終的には人間が人間でないものと触れるためのメディアになる」というが。

私たちはその「人間ではないもの」を、どのようなものとして想像し作り出そうとしているのだろうか。ケモノか、非人間か、未知の敵か、アバター(分身)か。それとも、もう一人のワタシ自身なのか。そのいずれでもあるにせよ、ないにせよ。私たちは「人間以外」のものとの関係を、愛(注 : 中沢)を、そこに求めているのなら。逆にいうなら、人間を求めてはいないのなら、ということになるのだろうか。それでも「愛」は生まれるのか。

「ゲームの時代」とは何か。これはたんなる〈遊び〉ではない。現実が仮想になり仮想が現実となってしまった今の私たちが、これから生きていく時代の意識と無意識との振幅のなかで、危うい座標に踏み込もうとしていることだけは言える。未来はどうなるのだろう。