calendar_viewer 元村正信の美術折々/2020-08

2020/8/29 (土)

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美術折々_293

のようなもの、断片


このところ培養肉や代賛肉といった人工食材の動きが目立つ。これらは「フードテック」と名付けられ、先端テクノロジーを使って新しい食品や食材を作ろうとするもの。話題となっている「代賛肉バーガー」をはじめ麺類、おにぎり、丼などの新商品が発売されるという。これらの材料は「大豆ミート」と呼ばれ、大豆を100%使用。その油分を搾油して過熱加圧・高温乾燥させ加工し味付け・成形してつくられている。

特に外食やコンビニなどのメニューや商品に導入されている。「健康にも環境にもやさしい」というキャッチだが、一方で加工に手間があかり、価格もいまのところ高めらしい。背景にあるのは世界的な食料需給への懸念というが、じつはこれまでの食肉市場に加えあらたな人工的培養肉や代賛肉市場の開拓拡大に世界市場が乗り出したという訳だ。

すでに代賛肉には「肉と変わらないおいしさ」や「肉よりうまい」という評価もあるようだ。これから次々と代賛肉を使った新しい食品を私たちは食べさせられることになる。

しかしである。本来、肉を食べたい、肉が入った食品を欲していたはずなのに。肉のような食感や味はするが「肉ではない」ものを、なぜ食べねばならないのか。健康にも環境にもイイからというのは、代賛肉を使用する理由になるのだろうか。そもそも日本の大豆の自給率は7%で、国産食用大豆は自給率25%程度に過ぎない。
つまりここでも輸入依存は変わらないということだ。

畜産物以外のタンパク源としての、大豆を主原料とする「代賛肉」商品の数々。肉ではないが、肉の味がするもの。牛の細胞などを培養してつくる肉のような「別の肉」。私たちは、何を食べたいのだろうか。何を食べようと欲しているのだろうか。欲しているものを求めているのか。そこには「のようなもの」ばかりが溢れる現在。

芸術も美術も同じかも知れない。芸術のようなものを欲して、美術のようなものを見ている。いやアートそのもがすでに何かの代賛であり、代賛品なのかも知れない。
私たちの感覚は感性は「のようなもの」を、嗅ぎ分けながら先へ進まねばならないのだ。

2020/8/23 (日)

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美術折々_292

動揺の渦が


突然ですが。何が芸術を芸術たらしめるのかと聞かれても。
これに答えるのは容易ではない。
何よりそれは、芸術の定義できなさにあるのだが。

じゃあ。それなら引いてみよう、ということで。身近なところから始めるのがいい。
まずそれぞれ自分が思い浮かべる「芸術」と思うものがいろいろあると思う。そこから〈芸術でなくともよいと思えるもの〉を削除してみる。

これはたくさんあればある程よい。芸術がだんだん絞られてくるからだ。考えればかんがえるだけ、芸術というものの曖昧さが露わになってくるだろう。
だがその反面、じぶんが何を「芸術」と言っているのかが少し分かってくる。

しかしそれでもまだ恣意的判断にとどまるから、もっと踏み込む必要がある。
ではどうするか。それは、これまでの〈芸術〉を削除してみることだ。
そう。これまであった古典もアヴァンギャルドも、今どきのアートも。そして何が残るか。それでは何も残らない? そうかも知れない。

でも「芸術を芸術たらしめる」ものというのは、芸術が何もないことにまず気づく必要がある。
なぜ「芸術がない」と思えるのか。それは芸術ではない、芸術以外のものが、自分の中で分かっているからだ。そう考えると少なくとも何が芸術なのかが、朧気ながらも見えてくるに違いない。

しかし問題はここからなのだ。芸術があるとしても。なぜそれが「芸術」なのか。芸術と言えるのか。芸術への不安は、未知なるものへの不安でもある。だれひとり認めないものを認めようとする時の、激しい揺らぎ。

「芸術を芸術たらしめる」のは、そんな動揺の渦が、抵抗の痕跡として形になるかどうかだと、僕は思う。

2020/8/16 (日)

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美術折々_291

さて何を食べよう


もうひとつ、SNS上でみつけた話。
それは「人生を絵(を描くこと)に賭けて食っていけるのか?」という問いに、画家の千住 博が「じっさい、売れてなくて飢え死にした画家がいると聞いたことはない」と答えたという。たとえ絵が売れてなくても、飢え死になどしないということだろう。この話の出どころが不明なのでその真意と真偽のほどは定かではないのだが。これに美術批評家の布施英利が「美術なんかやって、“ 食っていける ” のか問題」とコメを付けていた。

まあどちらもどちらだと思う。「売れてなくて飢え死に」という時代錯誤的喩えにしても「美術なんか」という見下し方にしても。僕なんかからすると「絵に人生を賭ける」というのは、近代絵画が生んだ職業画家の笑えない妄執にすぎないし、「食っていけるのか」問題なんて、「美術」の問題でも何でもない。

そもそも人生を賭けることなど、そう毎度まいどあっては身が持たないではないか。たとえ「絵」を描くことを一生続けるにしても、食う方法はいくらでもあるのだし、描くことを美術を、ことさら職業化してどうしたいのか。またこの現在に「飢え死に」するというのは、ひとり暮らしの病気がちの大人以外は、ほとんど自死しかないだろう。

人の生業などというものは、ひとそれぞれである。それを業種によって芸術家や画家などと分けて、それで食っていくことにことさら職業化することは、美術や芸術を問うことと何ら関係はないし、それはまた別のことである。美術をやっていようが、芸術に関わっていようが、何かを賭けて食うことなどほとんどあり得ないだろう。

なぜなら「食う」ことは、いちかばちかの勝負ではないから。日々の糧であり日常そのものである。人生が勝敗で左右される連続の勝負師やギャンブラーだって食うことは日々そのものだ。つまり「食っていけるのか」という問いに対しては、「心配御無用」と返せばいいのだ。そもそも自分がいったい何に賭けているかなど、そうたやすく他言できるものではないのだから。

「飢え死に」するか、しないかは自らが選び取るものだ。何かに賭けることも食うことも、けして〈芸術の問題〉ではないのである。さて今夜は何を食べよう。

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2020/8/9 (日)

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美術折々_290

それが思いもつかない日まで


先日SNS上で、差別というものに非常に敏感で良識もあるであろうある日本の学者が、こんなことを言っているのを読んだ。
「差別する心を持つ事は自由ですが、それを実際に人にぶつける事は自由ではありません」と。
フォロワーは1万人以上で、4000名を超える人たちがこれにイイネをおしている。

僕は驚いた。では「差別する心を持つ事は自由」なのか。だれでも「差別する心」を持っていいのか。
学者というからには、おそらく大学かどこかで若い人にも教育する立場にあるに違いないだろう。

つまり差別する心や意識はみんな持っていいけれど、それを行使してはダメですよと言っている訳である。
実際に人にぶつけさえしなければ、差別しなければ、差別する心は認められ自由なのだろうか。
そこには人間としての疚しさの微塵もないのか。

これは差別発言と言われるものや、そのような行為よりもっとその根底において差別的ではないかと僕は思う。どうだろう。標語のようなスローガンで「差別をしない、させない」ではないのだ。

むしろ差別ということすら思いつかない心や意識のありようがあるはずだ。
たとえばレイシズムはどうだろう。人種差別主義。人種で差別することへの批判は正当かも知れない。だが白人優位は不問に伏したまま人種間の違いは肌の色や血統、生い立ち、境遇によって差別されてはならないと、いつも主張される。だがここにも「人種の違い」など目に入らない、まったく問題ではないではないかという視点のありよう、人種を持ち出す以前に人間であるという心や意識が欠けている。

先にあげた学者が、差別を批判し否定しながら「差別する心」を自由だといって容認する。これは矛盾というよりも欺瞞そのものだ。

哀しくも差別というものが永遠になくならないのは、差別どうしが差別によって差別化されているからだ。差別の円環構造がそこにあるから。ほんとうに差別がない世界は、差別など知らず思いもつかない人間で満ちあふれる日まで、そしてそれが思いもつかない日まで待つしかない。それまでこの世界はあるだろうか。

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2020/8/2 (日)

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美術折々_289

あたらしい自由な世界が


「利子」の誕生から約800年。いまでは超低金利どころか「金利の死」が世界に広がっている。
すでに「成長」はゼロ以下であるのに、それでも貧富の格差は新型コロナ下にあっていっそう
その二極化に拍車をかける。実体経済は悪化する一方で、株価の回復や金市場の最高値はなんだ。
新型コロナウイルスの感染拡大がもたらしたのは、金利の死だけではない。

ついに日本の赤字国債は1146兆円を超え膨張を続ける。これは国内総生産(GDP)の2倍にあたる。
現在の負債は未来へ限りなく先送りされるばかりだ。倒産と解雇、失業は常態と化し、すでに資本と労働の分配構造は破壊されてしまった。

リモートとかオンライン化で働き方も変わっていくというが、それは大小を問わず資本の論理だ。
労働時間は見境なく生活の隅々にまで浸透している。
在宅勤務や副業の自由化はいっそう生活と仕事との境界を無化していくことだろう。

さらに利潤率の低下は、ますます労働をAIによってロボット化し人間を必要としない労働の
システムによってカバーしようとする。だから新型コロナウイルスの感染拡大は感染者や重症者、
死者数の増加が怖いだけではないのだ。同時に進行する個人消費の減退と経済の空洞化が
未来の「利益」をすでに現在の債務に否応なく変えようとしているからだ。

それでも、デジタル化で加速する世界企業の3割は増益を上げていることをどう理解すればいいのか。
こここにもまた二極化が生じていることを。世界のこの感染下にあってもである。

私たちは何を恐れ何に鈍感になっているのだろう。そしてその水面下で拡大する格差や差別の肥大。
数の支配や価値は、なにもいまさら始まった訳ではない。
効率といい生産性といい、合理化という名において私たちを序列化し階層化してきたもの。

利子にも金利にも縛られることのない、もっと「自由」な資本主義世界がいま訪れようとしている。
それはもっと貧しい世界なのか。いやもっともっと富裕な人間だけの世界なのか。
うっすらといま見えかけているようだ。そこに否応なく広がろうとしている私たちの光景が。

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