calendar_viewer 元村正信の美術折々/2020-04

2020/4/29 (水)

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美術折々_269

生存権としての芸術(2)

日本国憲法 第3章 第25条 第1項「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」。
でも、敗戦後日本における〈生存権〉に盛り込まれた「最低限度」の生活の営みが、なぜ「文化的」であらねばならなかったのだろう。よく知られた空爆による「焼け野原、焼け跡」からの再出発だったからか。それでもそんな悲惨をもたらした戦争の反動反省としての「文化国家」という理念のもとに、おそらく「人間に値する生活」をもういち度、生き直したいと多くの人々が望んでいたに違いない。文字通り「再生」を希求していたのである。

それから75年。モノやコトそして情報や仮想空間さえ現実となるなかで、いま不可視の新型コロナウイルスによってこの「文化国家」もまた停滞を、遮断を余儀なくされている。さらにその「文化」も経済活動と不可分の関係にあるのだから、どんな文化事業、文化芸術活動も制約を受けることになるのも当然だろう。

そんな中にあって、なぜ僕は「生存権としての芸術」を考えるのか。それは、どんな市場経済の乱高下や価値にも左右されない〈未知なる芸術〉の試みを不断に体験してみたい、といつも思っているからだ。

その芸術が「何も生産しなくとも」と僕は前回言ったが。いや芸術だって生産するではないか作品を生み出すではないか、という反論もきっとあるに違いない。「生産」というものが経済活動において「生活に必要なものをつくりだすこと」であり、人間の技術が作り出したあらゆるものを「生産」だと言うのなら、芸術もそれに含まれるのではないかと。

だが、芸術は「生活に必要なもの」なのか。もちろん必要なひともいるが、必要ない関係ないという人だっているのだから、かならずしも必要であるべきものとは言えないはずだ。だから僕はそんな芸術を、生活の〈必要以前にある〉ものであり、もっといえば〈生活そのもの〉だとかんがえる。

そして生活とは「生存して活動すること、生きながらえること」(広辞苑)であるなら、芸術が存在する可能性というのは生産以前、生活の必要以前にある〈生存の活動〉そのものの中に見いだすことができる、といえるのではないか。だったら「生存権としての芸術」もありうるのではないだろうか。
では「文化的で最低限度の生活を営む権利」と芸術はどう結びつくのだろう。

2020/4/26 (日)

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美術折々_268

生存権としての芸術

緊急事態宣言による休業や様々な自粛要請によってこの国の経済全体が停滞悪化していることはいうまでもないのだが、「密集・密閉・密接」の対象となる文化芸術活動もまた同調するようにして活動の自粛や縮小に追い込まれている。文化産業にあってもエンターテインメントはじめ演劇、音楽もその危機感はいっそうつよい。

欧米のように国家・民間からの文化支援やアーティストの社会的地位、資格が明確でない日本の作家や製作者、事業者は、さらなる困難・困窮を強いられている。

たとえばその活動の全体をここで「アート」としておおきく括ってしまえば、それらが表現としてだけでなくいかに商品あるいは事業、経営として成り立たねばならないかが分かるというものだ。

では経済活動とは異なる「芸術」というものが、はたしてあり得るのだろうか。芸術も作品もまた、商品化され経済化されてしまった現在に。もしあるとしたら、おそらくそれは生存権としての「芸術」というものではないか、と僕はかんがえる。

日本国憲法第25条には「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とある。これはつまりだれもが等しく「生きる権利」を保障されるものだ。僕がここで着眼するのは「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」というものが、生きるだけでなく同時に何も生産しなくとも「文化的な生き方」、営みや行為としての「芸術」の生活も含みうると解釈できるからだ。

よく言われるのは、芸術なんて生活の心配がない者が関わるもののことだと。それは違う。じっさい憲法は、文化的=最低限度だと規定している。つまり人間として「最低」の状態であっても「文化的」な生存が実現されなくてはならないということである。もし芸術が文化の名に値するのなら。

ということは、ここになんの利益も経済的価値をも産まずとも芸術的生存も作品も可能だと第25条は認めている、含み持っているということだ。どうだろうか。

2020/4/21 (火)

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美術折々_267

とがめられない「芸術」はありうるか

有水康司というある聡明な人が「科学などの実験の失敗は、世間では余り評価されませんが」、「芸術に絶対的な定義はありませんから、その失敗した実験のすべてを『芸術』と称しても、誰も咎められないわけです」とFBで語っていた。なるほどなぁ、と思った。

僕も長く芸術というものに関わっているが、芸術における「失敗した実験」を「誰も咎められない」という指摘は新鮮だった。これはつまり、芸術の定義できなさにおいて、失敗も成功にも基準がないということだ。

あのデュシャンをはじめ、これが芸術といえば芸術になる世界の評価というのは、いつだって後から決まる。
初めから作品が生まれた時から評価が決まっているのではない。この世に「傑作」と称されるものは少なからずあるが、それさえ厳密な規定がある訳ではないということだ。

しかしここには、ある落とし穴がある。「誰も咎められない」というのは、何でもが芸術になりうるし、逆にすべてが芸術にはなり得ないということにもなる。「失敗した実験」を咎められないことをいいことに、野放図に「作品」は生まれていく。芸術として表現される。もちろんそこに何の批評も批判も否定もないということではない。ただ芸術には、「芸術という咎められなさ」があるのは確かだ。だれかが言ったように、芸術は見くびられているのだろうか。

それはかつて前衛と呼ばれたものの芸術への再帰、アヴァンギャルドの結末を見ればいい。そして行き着いた今のアートを見れば明らかだろう。芸術の当事者、関係者は「誰も咎められない」、あるいは芸術は「誰からも咎められない」まま甘んじるなら、芸術は自閉し道具化し目的化し消失するしかない。「誰も咎められない」からあれほど芸術史はこの現在まで、無数の凡百の、芸術作品といわれるもので賑わい溢れ返っているのだ。

あやまち、あやしまれる芸術のとなりに、また崇高なるものもあり、美も傑作も凡作も隣り合っている。
「誰も咎めない」芸術は、自らを超え出ていかなくてはならないはずだ。でなければ、まさに「失敗した実験のすべて」だったと、未来は私たちの「芸術」を笑い飛ばすことになるだろう。

2020/4/14 (火)

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美術折々_266

謎の自信の女の子

いま感じている、この得体の知れない無音のような〈空虚感〉、虚しさといったものはいったい何だろう。

拡大する感染者数、そして国内はもとより世界でも多くの死者が出ているというのに。さらに広がる院内感染と医療崩壊への不安も重なって。

しかし思うに何よりも厄介なのは「無症状」という、自分が感染していていることすら分からないことだ。それは誰もが感染しているかも知れないのに、発症しないという可能性のことでもある。

つまり「元気」だと思っていられるということだ。これを専門家は「見えない感染」だという。

だったら「感染を減らしていく」というのは、偽りのスローガンにはならないのか。であれば、この見えない感染はほとんどの人間にまで及んでいくとしても何ら不思議ではない。

僕が先に〈空虚感〉といったものは、もしかしたらこの無自覚なまま感染しているその無症状さから来るのではないだろうか。それがじぶんのことかも知れないのに、なぜ〈空虚〉に感じるのだろう。

あるTVのインタビューに答えて、じぶんはかからないと信じている若い女の子がこう言っていた、「謎の自信があります」と。そう「謎の自信」、これこそ無症状であり見えない感染の裏返しでもあるのだ。

つまり、生活の死も肉体の死もすぐそこにありながら、それでも生も死も遥か遠くにあり、なんら共有されてはいないということになる。「謎の自信」は孤立した自己とでも言ったらいいのだろうか。

先の見えない感染拡大の恐れや困窮への不安が高まりながら、いっぽうで感じる〈空虚〉こそ、「見えない感染」が広がっているということから来るのではないか。

たまたま、重症化せず死ななかっただけだ。いま「健康で元気」と言い切れるとしても、どこか虚しい。

感染が終息するのではない。無症状の「見えない感染」が、感染しきった時、私たちはこの未知の経験をやっと振り返ることができるのだろう。

でもそのとき。たとえ世界のすべてが安堵したとしても、この〈空虚感〉は、はたして埋められるのだろうか。無力な虚しさなど残らないとは誰も言えないと、僕は思うのだ。

2020/4/7 (火)

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美術折々_265

餓えた夜の 花びら

もうすぐ春の夜の とばりがおりてゆく
そのかたわらで ただ 数だけがカウントされている

わたしだって濠に散っていく薄桃色の花びらを数えているのに
それでは数がたりない 追いつかないのだ

最悪の数は つぎの最悪の数によって塗り替えられるというのに
散る花びらだけでは足りない ならば急ぎの花びらをつくろう

あの濠が闇に溶け込むまえに 花のかたちをした 数をつくろう
でも焦ってはいけない 気色ばむ数は 花びらを偽装するから

どこまでわたしたちは 数というものに 支配されなければならないのだろう
少なければ 叱咤され励まされ 多ければ 喜びほめちぎられてきた数

いつしか そんなスタイルに馴染んできた とにかく数だ 結果だと
しかし数はあくまで強制ではないという 要請だと
じゃあ これからはひとりでいいんだ 少数でいいんだ 多数はやめよう

だって多数が 最悪を招くのだからと 言われるから ひとりでいよう
もうこれからは 何も見まい 口も聞くまい 動くまい 耳も閉じて

ただひたすら 閉じこもり 引きこもろう 次のつぎの春がきたとしても
ただひたすら そうやって 散った花びらが じぶんを数える
そうやって 黙りこくった生が 餓えた夜に おりてゆく

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