calendar_viewer 元村正信の美術折々/2018-07

2018/7/27 (金)

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美術折々_159


いってしまった、運転士たちよ



ある私鉄沿線の駅ホーム。錆びついた蛍光灯のカバーの色にその青白い光が怪しく馴染んでいる。
夏の昼間だというのに屋根の向こうの空は、異常な汗と涙とも一切無縁のようで
どこまでも冷静な灰色だった。

これは明日の予告なのか。あるいは、きょうの照りつける日射しの隠蔽なのだろうか。
ここでぐるりと首を廻せば、澄みきった青い海も泥沼の残滓も永久凍土もすべてこのホームから
見渡すことができるという。ほんとうだろうか。

それにしても何日電車を見送れば帰してくれるのだろう。運転士たちよ。
そこかしこに見ず知らずの子どもたちを縛り付けたままその親たちを捕縛していってしまった、運転士たちよ。
ホームで泣きじゃくるこの子たちに親を帰してはくれまいか。
たとえこの夏が、親たちの欺瞞に鉄槌を下すことがあったとしても。

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2018/7/22 (日)

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美術折々_158


「親不孝通り」という名の無残



これがその無残な姿になったポプラ並木のなかの一本。
この木も、もう根こそぎ撤去され今はない。
僕は心底怒っているのです。虚しいのです。

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2018/7/16 (月)

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美術折々_157


僕からすれば「親不孝通り」最後の夜とでも



福岡市中央区天神3丁目と舞鶴1丁目を右と左に分かつようにして昭和通りと那の津通りをつなぐ、通称「親不孝通り」。ご存知、屋根裏貘とアートスペース貘の前のあの通りである。7月初旬、この通りの舗道の樹木が
ことごとく撤去された。高く太く大きく茂り、少なくとも数十年もの樹齢を重ねたポプラ並木が、一本残らず切断され根こそぎ引き抜かれてしまった。なんという。

いま昼間にこの通りに立てば一目瞭然だが、細い通りの両側に飲食関係の古い雑居ビルなどが立ち並ぶだけの剥き出しの、味も素っ気もなんの風情もない殺伐とした通りになってしまったのだ。明るくなった通り沿いはこれからタイル舗装をやり直し、歩きやすく小ぎれいな歩道に生まれ変わり、更なる賑わいを誘導しようとするのだろう。いったいどんな目先の通りにしようというのだろうか。どこか虚しい。

僕がこの通り沿いの路地裏のあちこちに足繁く通うようになって、もう48年が過ぎている。高2の美大受験の
予備校の頃から始まり、酒を飲み覚えたのもここだし、女の子を誘ってはどこかの店に紛れ込んだのもそうだ。
そして1976年暮れのアートスペース貘のオープン以来、今もこうして変わらずこの界隈を徘徊しているという訳である。しかし、丸裸にされた通りは痛々しくさえある。あっけなくも無残というしかない。

そうやって見えない力が、それも公然と突然のごとく強引に、ひとを町を引き裂き切り裂いては別のものに作り変えてしまう。何もなかったかのような顔をして〈風景〉はそうやって絶えず更新され偽造されて行くのだ。
僕はずっとこの「親不孝通り」という名がキライだった。じぶんの親不孝をいつも言われているような、座り
ごごちの悪いそんな俗称だったから。もうそんな親不孝もこれで充分だろう。サッパリと「親不孝通り」よ、
さようならだ。またあたらしい通りの名前を付けようではないか、恥ずかしくも眩しい名を、何度でも。

僕らが知らないもっとむかしは、この辺りは「万町」をはじめ「材木町」「鍛冶町」といった旧町に分れていて、きっとのんびりしたのどかな門前の職人町だったのだろう。その面影は通り近くに点在する幾つかの大きな寺の佇まいに、わずかに感じることができる。

この通りから東西に入る何本もの路地。いまの猥雑で薄汚れた町そのものを僕はけして嫌いではない。オシャレさとも無縁な、居酒屋やクラブ、バーがひしめき、昼よりも夜が賑わう町だ。でもこうして樹齢を刻んだポプラ並木も根こそぎ無くなったいま。赤裸々になった通りに、それでも通おうとするのは、ひとえに「屋根裏貘」と「アートスペース貘」があるからだ。

天神3丁目交差点の角から北へ右筋の三件目、今夜も細く急な階段をのぼって「貘」の扉をあけて見よう。

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2018/7/10 (火)

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美術折々_156


『森山安英──解体と再生』に触れて(4)



1987年。銀色の絵具による絵画は「色と形」をに用いずに、当初は筆を使うことなくアルミの粉末を樹脂系の溶剤でといてキャンバスに流すようにして「描き」始められている。その表面には斑点のような突起物が散りばめられ、流された銀色の絵具がそれらの抵抗を受けながら画面が生まれる『アルミナ頌』のシリーズだ。
この頃の「絵」は、画家・菊畑茂久馬の『天動説』シリーズとの類比がよく指摘されてもいた。絵画と物質の相克やモノクロームとしての表面、等々。森山にとっての「再生」は、少しづつ時間をかけて再び「社会」という明るみに引き出され復帰して行くなかで、旧友の働正や菊畑茂久馬たちとの久し振りの再会を通して、おそらく彼らを自らの再生の〈鏡〉にしたのではないだろうか。

じっさい1982年以降、菊畑の新聞連載や著作をきっかけに〈集団蜘蛛〉の軌跡は、日本の「前衛」美術史研究の中でかつての特異なその存在が、再び若い世代にも知られるようになる。〈蜘蛛〉がなければ裁判もなかったが、森山がいうように裁判がなければ絵に復帰したかどうかもわからないのだが。それでも森山を貫くすべての絵画は〈蜘蛛〉という自壊して果てたかつての存在によって今だどこまでも品定めされているのではないか。

最初の『アルミナ頌』以後、森山は、序々にフラットな表面の反射がつくる「光」のヴァリエーションに集中して行きながら、絵具の流し方の熟達を見せた『光ノ表面トシテノ銀色』へと移行していく。やがて1990年代前半の、流された銀色の絵具の偶然性に多くを依存する『ファインダーレポート』で、いわゆる「ヴァリエーション」としての「表面」は、ほとんど限界に達していたのではないか。それは偶然性に依存しながら、同時にそれをかなりコントロールできる熟練があったにせよ、それでも「絵画」というにはいまだ「描く」ことが、まったく欠けていたということでもある。

だから1996年以降の『ストロボインプレッション』から『レンズの相克』そして『非在のオブジェ』を経て1999年の『レンズの彼岸』まで、徐々に形をともなう描線や筆の使用が増えて行ったことは、「描くこと」にむけて意識的に銀色絵具の超克をしきりに図っていたのではないかと思われる。

さらに2002年から始まる『光ノ遠近法ニヨル連作』から2010年の『水辺にて』まで、「形と色」への模索が積極的に銀色絵具を隠すようにして試みられているのがわかる。回転するトンネルのような遠近感に合わせ、モノクローム的ながら様々な色彩を使った絵筆もまた動きを険しくしている。そして2011年から2013年の、巨大なタンカーの横幅の断面を左右いっぱいに描いたような単調な構図の『幸福の容器』では、色彩はモノクローム的な扱いを脱し複数の色を使い、絵筆も拙い運びではあるが自らの運筆によって描こうとするこれまでにない試みが見られる。しかしここでもまだ「銀色絵具」は、捨て切ってはいない。だから下地のようにどこか踏みきれぬ躊躇のようなものとして、「銀色」が色彩と絵筆の向こうに透けて見えるのである。

森山安英は、確かに画家として格闘してきたと思う。「描こう」としてきたのだとつくづく思った。2013年から2017年の『窓』まで、それは手に取るようにわかる。2014年の「窓13(レオナルド・ダ・ヴィンチ手稿による引用)」あたりから、森山自身が「これが絶筆です」と語ったという最新作「窓51(石内都写真集『ひろしま』による引用)」において、やっと「銀色絵具」は消えたのだがそれでも結局27年というあいだ、森山は「銀色」を選び取ったことで逆に「銀色」から執拗に拘束されてきたとも言える。もしかしたら「銀色」は森山の絵画への帰還を、遠ざけ遅らせてしまったのではないか。これには当然反論があろう。「銀色」こそ「絵画」なのではないか、という。しかし、じつのところいまだ僕には「銀色」が〈絵画〉であると断言はできない。描かれてはいない何か、あるいは「絵画」の相貌をした〈何か〉であることだけは確かにいえるが。

森山は「もう描きたいものはない」と言ったらしいが、ほんとうはもっと描くべきものがあるはずだと僕は思う。もしその肉体と精神がまだ許すのなら。やっとこれからではないのか。「銀色」の桎梏から抜け出せたのなら、ながく求めていた〈絵画〉は、すぐ目の前にあったのではなく、やっと目のまえに〈現れて〉きたということではないか。今回の展覧会に森山がいう「普通の絵」など一点もなかった。「普通の絵」など描けないからこそ、森山安英は過激に問うてきたではなかったのか。芸術の否定と、その否定の果ての「芸術」と「森山安英」の現在。それはそのまま「芸術に対しては骨の髄まで恨みに思う」と言い切った森山が帰還した場所であり、そしてその彼を両腕で抱擁し歓待した「芸術」とは何なのか。

森山が、ながい苦節と苦闘の果てに、辿り着いた地点とは一体どこだったのだろうか。それはいったいどんな〈絵画〉だったのだろう。これまで「一回も絵を手放したことはないのです」という森山安英にとっての、
「芸術」の奥底の声を、いつかどこかで聞いてみたい。
                                             (了)

2018/7/7 (土)

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美術折々_155


『森山安英──解体と再生』に触れて(3)



では、これまで「一回も絵を手放したことはないのです」と言う森山から「絵画」を遠ざけたのは一体何だったのだろうか。むろん直接的には、「前衛芸術集団〈蜘蛛〉」という彼にとって自壊の頂点へと向かう過激なエネルギーがそうさせたのは間違いない。

だがそれ以前、「絵描き」をこころざし佐賀大学特設美術科に入学した森山は、二級上の先輩である久保田済美という若者と出会う。じつはこの出会いこそ、森山のその後を決定的なものにしたはずだ。森山はその出会いを「青天の霹靂」とまで表現している。久保田済美という眩しすぎる存在が、そして久保田への反動が、森山の芸術への試行をどこか屈折したものにさせたのではないか。森山は久保田を「師匠」といい、「すごかった」、「なかなか越えられん壁だった」という。「日本の近代美術で、あれほどフレキシブルな色を使った絵をみたことがないっていうか、今でも思います」と述懐している。これはつまり久保田済美という才能に、森山は打ちのめされてしまったということだろう。それを裏付けるように、久保田が佐賀大を退学すると「大学にいる理由がなくなって」しまった森山は、3年生の暮れに実家に戻ったまま除籍となり大学をすてた。

たしかに、たとえ絵を描かなくとも「絵を手放したこと」にはならない。「絵画」という対象は逃げてはいかないし、いつもそこにある。ただ、久保田済美という才能を「骨の髄まで見せつけられ」た森山は久保田をうしなったことによって、ある空虚のようなものを抱え込んでしまったのではないだろうか。言ってみれば半端に「芸術」を覗いたままこの世の路頭に放り込まれた、21歳の屈折した若者がそこにいたはずだ。

それからなぜ25年以上も、逆に「絵画」は彼を突き放したのか。自業自得とはいえ二つもの裁判によって彼は「絵筆」から遠ざけられたのである。それでも1987年、51歳の森山安英は『アルミナ頌』によってやっと本格的に「絵画」へと帰還することになる訳だが。森山はこうも言う。「僕の場合は美術に対して、それは愛憎ですけど、絶望の方が大きかったね」、「芸術に対しては骨の髄まで恨みに思うし」。なぜなのか、どうしてなのか。かつて、久保田済美によって「骨の髄まで見せつけられ」た才能というもの。そしてそんな芸術に対してなぜ、森山安英は「骨の髄まで恨みに思う」のか。ここに亀裂として横たわる〈愛憎〉。これは僕の独断だが、
もしかしたら森山は、この時じぶんというものの「才能」に対しどこか絶望していたのではないだろうか。

どうなのだろう。「裁判がなければ絵に復帰したかどうかもわかりませんね」と森山は回顧する。意外だったが、言い換えれば二つの裁判を経験したことによって時間は長くかかってしまったが「絵画」へと〈再帰〉できた、ということだろう。その「悲惨な裁判」の特異な総括を通して、いわば芸術における価値への敗北から、
あるいは才能というものへの恨み、不信を、「骨の髄」まで恨みに思う芸術を、逆に森山は踏み台にし得たからこそ「絵画」へと帰還できたのではないだろうか。「一回も絵を手放したことはない」のならそのとき森山にとって「絵画」は、私たちが想像する以上に、すぐ目の前にあったのかも知れない。

しかしそれでも30年近く、正面から「絵画」との対峙を避け離反を余儀なくされ、絵筆を巧く運ぶ修練も積んでこなかった「絵描き」にとって、真っ白なキャンバスに対する恐れ、苦しさ、しんどさ、その困難さは容易に想像がつく。さてどこから手をつけよう、ということだったろう。

どうしても「色と形が欲しくなったのです」(森山)という懺悔にも似た告白は、逆にいえばそれでも「色と形」というものは、そう簡単には現前しないということを予感させて余りある。森山は再帰的に「絵画」というものの《崇高さ》をまえに、改めてたじろいだに違いない。だからあの〈銀色絵画〉、『アルミナ頌』の、銀色の絵具による絵画は、何より「色と形」を直截的に用いずに留保する方法として、必然的に舞い降りてきたのではないだろうか。

2018/7/3 (火)

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美術折々_154


『森山安英──解体と再生』に触れて(2)



前回の最後に僕は、「森山安英にとって『絵画』とは、どう〈再帰〉したのだろう」と問いを発した。
これを考えるには、今回の図録に収められた森山安英インタヴュー[1]〜[5]における森山自身の証言が多くの手掛かりを与えてくれる。

その森山が、どう〈再帰〉したかをたどる前にすこし遠回りになるが「絵画以前の森山」にどうしても触れておく必要があるだろう。まず何よりも森山安英という男を「伝説的」にした、1968年から1973年まで自らが関わった「前衛芸術集団〈蜘蛛〉」と、例のいわゆる「森山裁判」。もう50年も前のことである。
森山裁判というのは、森山が「公然わいせつ罪」及び「わいせつ図画公然陳列罪」で有罪判決を受けた事件のことだ。「前衛芸術集団〈蜘蛛〉」というのは当時の「北九州において、いわば自爆テロを志向した前代未聞、空前絶後の反表現運動」(森山)であり「その過激な自己破壊がもたらす一種のカタルシスというかカタストロフィの被虐的な快感の麻痺によって現実の痛苦をまぎらわせ」た運動だったと森山はそう振り返っている。

ただ森山が「自己破壊」的傾向を持っていたのは、どうやら幼少年時代から青年期までのエピソードからもすでにその片鱗は見られる。例えば、雑誌『機關16 ─「集団蜘蛛」と森山安英特集』(1999年、海鳥社)に掲載された「森山安英自筆年譜」から少し抜き出してみよう。まず幼少期に同級生の女の子自身に砂を入れて遊び、ひどく叱らる。17歳の夏、犬の標本作りの時の悪臭に嘔吐し凄惨きわまる哭声の記憶。18歳の夏休み明け、汚物を入れ腐らておいた汚水を教室の窓から登校してくる生徒の頭上にぶちまける。20歳、佐賀大の時に泥酔し当時80万円はしたというショーウインドのガラスを破砕。他日深夜、ヤクザとけんかになり、ナイフで顔を切られる。23歳、実家に戻り家中のガラスを全部割って暴れ、体中にガラスの破片が入り入院。やがてホームレスとなり4年ほどを無収入で山の中に暮らす、といった具合である。

どうしようもない現実への怒り、愛憎、絶望が、繊細すぎた彼の感受性と肉体を貫いていたとするなら、森山がいう「被虐的な快感の麻痺」という感覚は、すでに若い彼の身体を覆い尽くしていたのではないだろうか。そして1960年、24歳の時に小倉でのちに九州派の論客と言われるようになる画家の働正と早くも出会っている。
このことは、森山が九州派の存在を知り、同時代の芸術つまり当時の日本の前衛美術の動向に関心をもつきっかけともなる。森山にとって働正との出会いは、その後の彼をつよく鼓舞し左右したのではないかと、僕は思う。

これから先の森山は堰を切ったように「前衛芸術」の渦の中に飛び込んでいくのだが、それでも森山の中には日本の近代美術や現代美術への「絶望感の方が大きかった」らしい。それからの「前衛芸術集団〈蜘蛛〉」の結成から崩壊までの道のりや過激な一連のハプニングは、すでに知られる通りだ。

けっきょく森山の「被虐的な快感の麻痺」は、彼自身の身体的破滅ぎりぎりまで容赦なく彼を蝕むことになってしまった。「殆ど仮死状態」の森山安英がさらにもうひとつ、こちらは勝訴はしたものの過酷な「家屋立ち退き裁判」を終えるころにはすでに47歳になっていたのである。いままで「僕は一回も絵を手放したことはないのです」と言い切る森山だが、佐賀大の画学生時代の離反からすでに25年以上「絵画」から、絵筆から、遠のいていたことになる。