…………………………………………………………………………………………………………………………………… 美術折々_273 ~ 試行は錯誤そのものなのだろうか ~ いまだ不条理演劇の傑作といわれるサミュエル・ベケットの戯曲『ゴドーを待ちながら』 (二幕からなる悲喜劇)。 ウラディミールとエストラゴンという二人の浮浪者が、ゴドーという人物を待ちながら ふたりの会話は延々と続くが、ゴドーは来ない。 ほとんど何も起こらないと言ってもいいくらい空虚なまま、そしてゴドーは現れないまま 二幕の劇は幕を閉じるが。いやそれさえ「終わった」と言えるのかさえ分からないままに。 見えないゴドー Godot はだれか。それは神か、いや神はすでに死んでいる。では見えない恐怖か。 いろんな解釈がある。ゴドーとはいったい何か。ベケット自身も答えてはいない。 でもなぜ僕は『ゴドーを待ちながら』を唐突にも思い出したのだろう。 それはいまの私たちに蓄積され広がっているようなある種の〈空虚さ〉をどこかで重ねてみたのだろうか。 日々抑圧された欲望でさえ、どうそれは私たちの自意識を歪めているのか。 日々抑圧された欲望でさえ、それは私たちの自意識をどう歪めているのか。 劇中で「きょうは来ないが明日は来る」と少年は伝えるが、永遠にゴドーは来ない。 もしかしたらそれはゴドーではなく、ただ「明日が来る」からという意味だったのか。 このいまの、未知の感染いや現実をまえに。明日は本当に来るのだろうか。 疑心暗鬼のノイズが増幅されては、同調圧力の歪みとしてさらに敵対的に現実を歪めていく。 私たちは何を「待って」いるのだろう。たしかに「終息」には違いない。 だが終息を保障するものなど、どこにもないし。 いつ静まるとも言えない不安が、こころのどこかに棲み着いてしまったようだ。 私たちは見えない「ゴドー」を待ちながら、まだ試行は錯誤そのものなのである。 ~ #lightbox(ground_0218.jpg,,50%)