…………………………………………………………………………………………………………………………………… 美術折々_88 ~ 三月の、その頃の ~ いつもの帰り道に、小さな路地を左へ直角に曲がるところがある。 その日は、突然だれかに呼び止められるような、そこはかとなくただよう甘い香りに、思わず振り返った。 それは、ビルの壁に隠れそっと白い花を咲かせた、小さな一本の沈丁花だった。 秋の頃の金木犀もそうだが、ひらいた花に気づくよりも先に、香りで季節の訪れを教えてくれる樹木。 ほとんど気づかれることなく、そこに植えられたままこの世の積年の、ぬぐえぬ埃をかぶった 常緑樹たちにとってのそれは、怨みにも似た、それでも華やぎの瞬間だったのだろうか。 僕の中にそっと射し込んだ、ひとすじの香り。 日々追われるように生きてばかりの、自分というものの愚かさや気ぜわしさを。 苛立つばかりの余裕のなさを、叱られているような気がした。 きっといつもこのにようにして、見過ごしてばかりの事だらけなのだ。 いったい僕は何を見ているのだろうか。 その時。ふくらんでゆく春の風に混じって、鈍く暗い、それでも光と言えるものが、 僕ひとりの窓を目がけて不意に射し込んできた。それも、ほんの一瞬のことだった。 ~ #lightbox(sonohikari_0065.jpg,,70%) #lightbox(sonohikari_0065.jpg,,65%)