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美術折々_137
冷たい雨にさそわれて
私たちの生々しくも、リアルであるはずの「現実」というものが、なぜ虚偽や欺瞞あるいは隠蔽によって、
それらが何もなかったかのようにことごとく「虚構化」されてしまうのだろうか。
「疑いもなく、われわれは人間に苦しんでいるのだからだ」といったのは、ニーチェ(『道徳の系譜』岩波
文庫)だが。
ただそれが人間どうしの苦しみであるにしても。しかしこれが「人間どうし」ではなく、ある一群の人間が、
別種の人間というものを捏造、あるいは仮想化し、いやもっと露骨にいえば、その「虚構化」が、おなじ生身の人間そのものを無限に「腑分け」した結果をもたらしたとするのなら、ニーチェは、いまどう答えるだろう。
今朝のような冷たい雨にけぶる春霞が立ち込めた視界のきかないぼんやりとした景色に、ときに僕はひとり理由もなく苛立ったりする。それはどこか大事なことを曖昧にしたり、すべてを帳消しにするかのような、自然の〈生理〉をおぼえるからだ。
おそらくだれもが自然というものに畏敬の念をいだき、いつくしみ、めでながら、そこにおおくの「美」を見い出しながらも、私たちが《自然》だけでは済まなかったことの意味を考えてみたりする。
現に自然に対峙する人類のあらゆる《技術》というものがそうであったし、そこから自立した《芸術》もそうだ。だがいまとなっては、このあるかなきかの「芸術」も、心もとない。過去の「芸術遺産」は保護され活用
され強化される一方で「未来のアート」のおおくは、消費原理というものに、ほとんど無抵抗にしか実現され
ていないのではないか。
自然にも人工にも抗ってきた人間というもの。そのどちらでもない人間というもののありよう。
もしかしたら「芸術」というものは、それに対する未来への問いをあらかじめ用意することによって《芸術》の役割と言えるものを持って生まれたのではないかと、思ったりもする。
しかしそれにしても、いまだその「役割」が実現されているとは言えないのではないだろうか。