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美術折々_88
三月の、その頃の
いつもの帰り道に、小さな路地を左へ直角に曲がるところがある。
その日は、突然だれかに呼び止められるような、そこはかとなくただよう甘い香りに、思わず振り返った。
それは、ビルの壁に隠れそっと白い花を咲かせた、小さな一本の沈丁花だった。
秋の頃の金木犀もそうだが、ひらいた花に気づくよりも先に、香りで季節の訪れを教えてくれる樹木。
ほとんど気づかれることなく、そこに植えられたままこの世の積年の、ぬぐえぬ埃をかぶった
常緑樹たちにとってのそれは、怨みにも似た、それでも華やぎの瞬間だったのだろうか。
僕の中にそっと射し込んだ、ひとすじの香り。
日々追われるように生きてばかりの、自分というものの愚かさや気ぜわしさを、
苛立つばかりの余裕のなさを、叱られているような気がした。
きっといつもこのにようにして、見過ごしてばかりの事だらけなのだ。
いったい僕は何を見ているのだろうか。
その時。ふくらんでゆく春の風に混じって、鈍く暗いそれでも光と言えるものが、
僕ひとりの窓を目がけて不意に射し込んできた。それは、ほんの一瞬のことだった。