calendar_viewer 元村正信の美術折々/2019-06

2019/6/24 (月)

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美術折々_216

〈アート〉と〈芸術〉の相克

美術手帖6月号が「80年代★日本のアート」と題して特集を組んでいるのは、前にこの欄で少しふれた。
そして僕はそこで「80年代の日本に『アート』なんてあったっけ」と書いた。これは率直な感想だった。

80年代というのは、つまり30〜40年近く前のことである。いまの美大生や若い世代の人たちが生まれるもっと前だ。当時、僕が知る限り「現代美術」や「美術」という言葉はどこにでも転がっていたが「アート」という
言葉は、ほとんど聞かなかった。だから、現在あたりまえとなってしまった「アート」として1980年代を振り返ることは、80年代日本の「美術」や「現代美術」(当時そう呼ばれていた言葉も含めて)の内実を見落としてしまい、ひいては日本の近代美術史における「反芸術」以後の、「前衛」なきあとの〈現代美術〉としての
表現や批評の歴史を歪めてしまうことにはならないのか。

さすがに美術批評家の椹木野衣は、同特集の記事「『アール・ポップ』から始める」においても一貫して80年代の〈美術〉という言葉を確実に保持し、逆に「アート」という言葉の使用は慎重に避けている。それは当然
だろう。なぜなら80年代にその萌芽はあったにせよ、それを準備したにせよ、いまだ「アート」は生まれてはいなかったからだ。

しかし「もの派」以後の、1970年代の若い作家たちにとって発表の場所として主流となっていたいわゆる日本的な「貸し画廊」システムに取って変わるように、80年代前半から企画画廊やコマーシャル・ギャラリーが次々に生まれることで、それまでの現代美術や美術というものが持っていた内省的で否定的かつ多分に自己言及的な作品はしだいに少なくなってくる。さらに一方で日比野克彦に代表される、イラストレーションともオブジェともつかないデザイン系の作品群が台頭して来る。この勢いはそのまま90年代に接続されながら「美術」や「現代美術」の衰退と入れ替わるように「アート」化して行くのである。やがて村上隆や奈良美智の登場によって「アート」は全面化するに至る。

そのことは赤瀬川原平が2003年に森美術館開館記念の「ハピネス」展図録に書いた中の次のことば、「かつて芸術といわれてたものがいまはアートといわれているが、このアートの内実はじつはデザインなのだ」という
鋭い指摘は、アート全面化の相貌を言い表しているのである。

かつて美術批評家の藤枝晃雄は「70年代は不毛であったが、80年代は不毛ですらなかった」とこの時代を切り捨てた。だがいま、1989年生まれのアーティスト・原田裕規が言うように「すでに『アート』は『美術』界の最深部にまで到達している」(同号)のかも知れない。そうやってすでに「現代美術」は崩壊してしまったが、たとえ「芸術」の最深部に「アート」が到達しているのだとしても、未知なる〈芸術〉の問題が〈アート〉によって解かれた訳ではない。

森崎 茂 的に言うなら、意識の外延性によってさらに〈アート〉はどこまでも拡張し続けるだろう。しかしそれでは、どこまで行っても未知の〈芸術〉が内包するポテンシャルに〈アート〉は到達しえない。私たちは「不毛ですらなかった」時代をとっくに過ぎてしまった。いまが、幸か不幸か。それはわからない。だが少なくとも見ようと欲しさえすれば、〈アート〉と〈芸術〉の相克を、はからずも目の当たりにできる時代に来たようだ。

2019/6/18 (火)

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美術折々_215

絵画ならざるもの[その五]

この〈聖なる森〉は、ずっと前からあるにはあった。
いつからかと問われてもだれも解らない。
過去をたどれば辿るほど、森は曖昧になる。
だからいっそう、聖なる森は「現代的」なのだ。

だがいまその森の地下には、とてつもなく大きく快適な空洞が出来てしまっている。
だれでもが小さな入口からいつでも降りてはそこから遥か先のあるかなきかの黄金を
目指すことはできるが、かといってだれもその空洞の果てまで辿り着いたことはない。

それでも人びとは、この地下洞を地上の森と比して世俗的な親しみを込め、
〈利益の空洞〉と呼んでいる。なぜ「利益」なのか。

それは日々の健康と安心・安全を、楽しみと喜びや、ちょっとした悲しみも含めた
あるいは生きがいをすべて祝祭として、日常の生活の隅々にまで甘い蜜をたらしてくれる
そういう空間だからだ。

しかし、それがなぜ「空洞」と呼ばれているのか。
それは、これらの利益が仮想でありまた幻想であり仮構となって生活を支えてくれるから。

これは皮肉ではない。私たちはその埋めようのない虚しさを、多少の自嘲を込めても、
競うように何よりいとおしんでいるからである。

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2019/6/13 (木)

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美術折々_214

いつかこの卑劣な世界が

ここにこんなものがある。これを自分と比べてみると、どうなのだろう。
内閣府調査の定義によると、いわゆる〈ひきこもり〉を「広義のひきこもり群」、「ひきこもり親和群」、
「一般群」の三つに分けて定義している。
まず「広義のひきこもり群」は、
・ふだんは家にいるが、自分の趣味に関する用事のときだけ外出する。
・ふだんは家にいるが、近所のコンビニなどには出かける。
・自室からは出るが、家からは出ない。
・自室からほとんど出ない。
・現在の状態となって6ヵ月以上の者。

つぎに「ひきこもり親和群」は、
・家や自室に閉じこもって外に出ない人たちの気持ちがわかる。
・自分も、家や自室に閉じこもりたいと思うことがある。
・嫌な出来事があると、外に出たくなくなる。
・理由があるなら家や自室に閉じこもるのも仕方ないと思う。
 以上の4項目が、すべて「はい」又は1項目のみ「どちらかといえばはい」と答えた者から
「広義のひきこもり群」を除いた者。

あとの「一般群」は、そのどちらにも当てはまらないそれ以外の者ということだろう。

僕は思わずうなるのだ。じぶんは、ほとんど「ひきこもり親和群」の一人ではないかと。いや、もっと積極的にそうありたい、そうあれば、こんなにも無残でほとんど虚偽と欺瞞で出来た社会というものと関わらなくて済むではないか。もしそれで一生を送ることができたら。それはそれで良いのではないか。しかし多くの人はそんな生活には耐えられないし、生きてはいけないというだけのことだ。

でもこの「ひきこもり親和群」。それは私たちが日々感じていることや対人関係の煩わしさ、学校、仕事、社会というものの息苦しさや不合理を少しでも考えてみれば、誰もがこの「親和群」と無縁なはずはないのだ。社会というものは、いつでも〈ひきこもる〉者たちを警戒するし、そういう眼差しを社会に習慣付けようとする。
しかし何もなければ、事故も事件もなければ、ただひっそりと生きているのなら、なんにも問題はないはずだ。一生自室に閉じこもっていようと。社会はすでに「貧困と格差」という名で、どんな人間でも堕落し失墜していくことを「自己責任」として容認しているではないか。していないというなら、いますぐ貧困と格差など廃絶すれば済むはずだ。

僕は思う。学校は、仕事は、社会は、そんなにいいものか。立派か。たとえ立派ではないとしても人間にとってそのひとつ一つが今もそうあるべきものなのか。「自己実現の場」というものは幻想ではないのか。もしそうでないと言うのなら、〈ひきこもり〉など「定義」されることもないはずだ。それがどんな〈ひきこもり群〉であろうと、そのような定義を生み出したのは私たちの、この卑劣な世界であることだけは、間違いないと思われる。
むろん〈芸術〉だって例外なくその卑劣な世界の親しい取引相手であることは、少なくとも肝に命じておこう。

2019/6/6 (木)

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美術折々_213

水のないプール追想

すでに周知の通り6月3日、美術史家・本江邦夫氏(多摩美術大学美術館長)が亡くなられた。
僕にとっての本江さんは、彼が東京国立近代美術館の研究員になって3年目くらいだったと思う。まだ30歳だ。同時に美術手帖の展評欄にも批評を書いていて、僕の東京・真木画廊の個展「水のないプール」を見て下さり、
同誌1978年11月号の同欄で取り上げていただいたことがあった。画廊近くの日本橋室町の喫茶店で、作品に
ついて話し込んだ思い出がある。もう41年も前のことだ。

その頃は、透明ビニールを重ねていくような作品だった。ちなみにこの個展タイトル「水のないプール」は、
その4年後の1982年2月に公開された若松孝二監督、内田裕也主演の同名映画があるが、僕の当時の個展作品
とは無関係である。

ともあれ、本江さんが僕の作品に目を留めてくださったことをここで改めて感謝したい。
そして本江邦夫氏の急逝を悼むばかりである。どうぞ安らかに。

だが残された者にとってはそうもいかない。いま美術手帖6月号は、「80年代・日本のアート」と言って振り返る。一瞬、僕は目を疑った。80年代の日本に「アート」なんてあったっけ。そう呼んでいたか。あったとしても、まだ「美術」ではなかったか。「現代美術」ではなかったのか。

それでは60年代の反芸術も、当時の「反アート」は、と言い換えて歴史を修正しなければならなくなる。
ならば、桃山美術も桃山アートに書き直すか。たとえもし今の時代が美術や芸術という言い方でなく、それらをほとんど「アート」と呼び慣わしているとしても、過去を歴史を、現在から恣意的に書き直し歪めてはならないはずだ。

これを奇異に思うのは、僕だけでしょうか。歴史とは、歴史を語るとは、そういうことなのですか。
本江さん、どう思いますか。

2019/6/1 (土)

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美術折々_212

だれが好んで捨てようか


たとえば、親と子のあいだの埋まらぬ哀しみ。5月30日付 西日本新聞朝刊文化面の、小説家・村田喜代子の
連載エッセイ『この世ランドの眺め』の中で「昭和万葉集秀歌」(1984) から引いた歌にこんな一首があった。

「泣き声も立てなくなりし吾子よ死ぬな死ねば貨車より捨てねばならぬ」 梶原徳子
                              [注]吾子(あこ):わが子、自分の子

1945年、日本の敗戦によって戦争は終わったのではなく報復の名においてなおも続行されていた。
ここにも中国満州から日本へ生死を賭けて逃れ引き揚げていく母と子が非情にもいま切り離されんとしている。
死ぬな、と叫ぶ母の声が貨車に響く。

それから8年後、僕はこの日本の片隅で泣き声も上げず逆子で生まれた。その反動だろうか、中学に入るまで毎日泣かない日はなかった。泣いてばかりのそんな子を、ついに父はある日「捨ててしまえ!」と母を怒鳴り付けた。それでもある夏、父に連れられいちどだけ鹿児島線で北九州の枝光駅から、なぜか客車ではなくあの引き揚げ者たちのように貨物列車に
乗り、関門海峡を抜けさらに山陰線で下関の安岡海水浴場に行ったことがある。
行ったといっても海の記憶はなく、ただ「安岡」という地名と「貨車」に乗って行ったことしか思い出せない。

「少年のわが夏逝けりあこがれしゆえに恐れし海を見ぬままに」 寺山修司

でもなぜその時、父はわざわざ日本海に面したそれも本州の海水浴場に僕を連れ出したのだろう。もしかしたら、泣いてばかりの僕を父は〈どこかで〉捨てたかったのだろうか。いまとなっては知るすべもないが。

先にあげた梶原徳子の歌が、僕にとっては父と二人切りの数少ない日をふと思い出させてくれた。
いまも僕は〈泣き声〉を立ててばかりだけれど、それは抗い生きていることの証しでもあるのです。
逝った父よ。