calendar_viewer 元村正信の美術折々/2018-10

2018/10/29 (月)

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美術折々_173


「抗い結晶するわたしたちの」


昨夜、アートスペース貘でのセッティングを無事終えた。
ペインティングとドローイング 8点からなる個展、元村正信「抗い結晶するわたしたちの」が、
今日から始まりました。

さてさて、どうなのだろう。
あるところまで踏み込めたと思ってみても、その射程のさらに先には未踏の荒野が広がっていた。
という、いつだってこの繰り返しなのだが。
それでも、この芸術なき時代の「芸術」の可能性と不可能性を問い、生きること。
僕にとっての個展というのは、そういうものです。

近くにお越しの折は、覗いていただければ幸いです。

11月11日(日)まで。

2018/10/26 (金)

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美術折々_172


抗う前夜


ずっと溜め込んでいた息を吐き出すように、久しぶりに夕暮れの町に出てみた。

すれ違う見知らぬだれもが、ひとり一人鮮やかなほど違って見えた。なぜだろう。僕が思う以上に、ひとは違っているにしても。それでも僕は同時に、その場所のすべての人を圧倒的に同一化しようとするちからへの反感を抱いた。

どうしてなのだろうか。

2018/10/14 (日)

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美術折々_171


絵画の〈外部〉から生まれるもの


個展を前に、いまこうしてそのための絵を描きながら改めて思うことなのだが。僕の場合「絵画」というものは、あらかじめ絵のモチーフや主題といったもの、あるいはテーマというものがあって絵を描いている訳では
ない。いつもそれらの絵は「絵画」の〈そと〉からやってくる色んな力によって出来上がってくる。

だから一般によく言われるような、自己の内面から湧き上がるものや心象風景などといったものとは全く異なるのだ。いってみれば〈絵画ではないもの〉が、僕をしてここにある絵画を描かせているとでもいうのか。
ただそれが「絵画」という形式である以上、だれが見ても絵画にみえてしまうのは当たり前なのだが。

もうすぐ出来上がるであろう絵は、もしかしたら絵ではない何かかも知れないし、絵以上に「絵」であるかも
しれない。少なくとも僕にとって、もはや「絵画」は絵画自体から生まれることはない。むしろ絵画を必要と
しないものの中から、あらたに「絵画」は必要とされ生まれてくるだろう。

2018/10/4 (木)

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美術折々_170


アートシンキング


今週の始め、ある大学の大学院芸術研究科の授業の中で少し話をさせていただいた。
美術家としての僕のこれまでの作品のことやアートと芸術を巡る問題、それに最近の企業や経済活動の中でも
よく主張されるようになったアートシンキングについてなどなど。

なかでもこの「アートシンキング」は、狭義のアートについての思考や単なる問題解決のための方法としてではなく、ビジネスや企業活動のうえで「アートの力」によって未来を問い創造していくための方法論などと言われているのだが。ここでの手法というのはアートそのものを問おうとしているのではなく、つまりアート的と思われてきたもの、いわば豊かな感性や創造性あるいは想像力を駆使した問いや、問題を提起する力を言っている
ようだ。

だが、アートが商品になり、商品がアートになる。そうやって芸術もアート化する。さらにビジネスもアート化し、ともにアートもそして「感性」もビジネス化されているのが現在である。だからアートは企業の写し鏡などと言われるのも分かるというものだ。もはやアートとビジネスを区別できるものはないに等しい。

たしかに、芸術の概念は絶えず問われ続けている。しかしそれは〈芸術の定義〉への抵抗として、芸術の概念が問われなければならないからなのだ。ありうるかも知れない芸術。それは少なくとも道具(ツール)化、手段化されない自律する〈問い〉としてあるからではないだろうか。