calendar_viewer 元村正信の美術折々/2018-08

2018/8/29 (水)

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美術折々_164


怠惰に抗する日々


どんなに暑い夏でも、いつものように仕事をするというのは、つい色んなものに甘えたり、あるいは萎えたり
するもの。それでもなぜ、そんな気持ちに鞭打つように〈仕事〉というものを、切れ目なく持続せねばならないのか。もちろん食べて行くためだというのは誰しも分かりきったことなのだが。

僕などは、かなり怠け者の方でいい加減な人間だから、若い頃から時間さえあれば寝て過ごすことを日々の幸福としているくらいだ。でもそんな人間がなぜこうして定義や評価、価値というものがつねに不確定であり流動し続ける〈芸術〉というものに向かって、いまだに自らの細き生を費やしそれに立ち向かっているのかを考える時、つくづく馬鹿なのだろうと思うのだ。しかしそんな人間にも〈魂〉というものは宿っているのである。

なぜ私たちの日々の暮らしというものは、こんなにも踏みにじられ翻弄され、騙されているのに、それによって成り立っている世界というものをなぜ私たちは享受し続けねければならないのだろう。現在の「アート」や「芸術」に、そんな理不尽さへの〈異和〉はないのだろうか。それがどんな表現の形式でもいいのだが、現にある
この世界との違和を持つならばこの世の欺瞞や横暴に抗していく生き方にきっとどこかで対峙するはずなのに。

そんなことを思いつつ、あと2ヵ月となったアートスペース貘での個展に向けて、汗を滲ませながら自らの
「怠惰」に日々抗しているのです。

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2018/8/22 (水)

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美術折々_163


芸術とは何か、のために(3)



かつてアドルノは『美の理論』(河出書房新社、1985年)の中で、「芸術は、社会を最も極端な形で拒否する場合においてさえ、社会的本質を持つものであって、こうした本質が同時に理解されることがないなら、芸術は理解されたことにはならない」と語っている。

現在のように「アート」にしろ「芸術」にしても、そのありようを社会とのつながりやコミュニケーションの方法として理解し、社会との共同性によって実現されるものだと思い込み、自らをまず肯定してかかり既にある
ものとしておかないと社会に認知されないし「社会との関係」が成り立たないと錯覚している人々にとっては、
芸術の制作を巡るものが、アドルノが言ったような「作られたものそれ自体ではない」ことや「存在せざるものが芸術における真実にほかならない」ということが、どうじに見えない不確定な現実への異議にみちているものだということに、きっと思いもよらないだろう。

〈芸術が生まれる瞬間〉というものは繰り返される日常にあって、じつは誰からも気づかれずに声をあげているものなのだ。その声は、この現実というものを否定的にくぐり抜けて初めて発せられる〈声〉なのである。そしてまたその声は、アドルノがいうように「自己自身に対してさえ歯向かう」能力を持つものなのだ。自己にさえ歯向かうというのは、危険きわまりない。しかしそのような危険を踏み越えずして、この世界の不全感や歪み、そして虚偽にあらがうことなど出来やしないし、ましてや〈芸術が生まれる瞬間〉に立ち合うことなどできは
しないのである。

じつは私たちは、だれもがこういう〈瞬間〉と出合っているはずなのに。何かに気づくということは、そいういうことではないだろうか。それは「芸術とは何だろうか」という素朴すぎる問いこそが、芸術をまさに〈芸術〉として際立たせることになるのだから。私たちは、アートや芸術に「何ができるか」を問うよりも、この非合理きわまりない〈芸術〉という理解しがたきものへの理解に際し、何よりまず自らをあけ開くことが必要だろう。

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2018/8/14 (火)

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美術折々_162


芸術とは何か、のために(2)



たとえば、アートと人をつなぐ、アートと地域をつなぐ。あるいは芸術と市場の関係、芸術と労働の関係でもいいのだが。では、こういう時の「と」とは一体何なのだろう。何かと何かの共同性や並立あるいは両者の関係を
表そうとするとき「と」は多用される。

しかし「アート」にしろ「芸術」にしても、それが何なのかをいまだ定義しえないでいるものを、私たちが他の何かとの関係において語ろうとしたり考えようとする時。「と」を用いたとたんに、「アート」「芸術」の定義は曖昧なままそれが何なのかを留保したまま、それを問うことなしに社会との「関係」のプロセスあるいは成果の方に、私たちの関心は向いてしまう。つまり「アート」も「芸術」も、アーティストも芸術家も、既にあるものとして既知のものとして、ひとまず脇に置いたまま「アート」や「芸術」と称するものの力によって何か別のものと協同しよう、新しいものを共に創造しようということになる。

例によって、それでいいではないか、と言われればそれまでなのだが。だが、僕はそうは思わない。
「芸術とは何か」を問おうとしないままアートを、芸術を、既視化し既成化してしまうことは、危ういことだ。既視感からこぼれ落ちるもの、誰も気づかないもの、だれも見たことがないものにこそ、〈芸術〉というものの不可能生も可能性もあるのではないか。

ARTは、芸術は、社会との関係によって生起し存在するのではない。ARTあるいは芸術は、すでに社会を内包しているのだ。だから芸術は、人も地域も商品も、市場も労働も内に含み持つのである。〈芸術〉とは、私たちが思う以上にじつは広大な領野を持っているのだ。ただその領土が、だれにも見渡せないだけなのだ。なぜなら〈芸術〉は、いまだ一度たりとも確定してはいないから、本当は誰も触れてはいないし見てはいないのである。

そのように危ういものを、既視化し既成化したものを懐柔し過ぎぬように関係者の方々はくれぐれもご注意を。
何度でもいうが、抵抗する感性のみが結晶するのだから。

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2018/8/7 (火)

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美術折々_161


芸術とは何か、を語るために



気象がなんだ、市場がなんだ、商品がなんだ、労働がなんだ、交換価値がなんだ、生産性がどうした、
いったい誰のせいかしら。真実も、異常も、美も、痛苦も、そして虚偽、欺瞞も、どれも似たり寄ったりで。
いまこのときこそ、すべての感性はそれらに対し蜂起せよ、《感性をして抵抗せよ》。

またしても、芸術とは何か。このクソ暑い夏でも、それでも芸術は必要なのか、必要とされているのか。
抵抗なき感性に、芸術を名のり主張する資格などない。抵抗する感性のみが結晶する。
それが〈芸術〉というものの形状なのだ。

ああ、壁がめくれているのではない、あらかじめそこに「家」があったから。
〈芸術〉というものはこれにも似て、どこかに現れているのにほとんど誰も気づかないものなのだ。
僕がいっているのは、壁のことではない。
もう一度言おう。こころある感性は蜂起せよ、《感性をして抵抗せよ》と。

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2018/8/1 (水)

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美術折々_160


〈未来〉に値するもの



6月末、博多駅からJR鹿児島線に乗って北九州市立美術館に行く途中、再整備工事中の同市、折尾駅の高架上
から気になって撮ったのが下記写真の右側のもの。車窓からの眼下には、煉瓦を積み重ねて作ったような幾つ
もの直方体の塊が無造作に置かれていて、一見まるで採石場から切り出された巨大な石の塊のようだった。
そして左側の写真は、九州工業大学のサイトで見つけたものだ。現在、同大の戸畑キャンパス内にはこの塊の
一つがコンクリートの台座の上にあたかも彫刻のように、他の近代化遺産とともに保存展示されている。

でもこれは単なる塊ではない。その、「彫刻」と思えるほどの量塊。つまり小さな赤煉瓦が規則的に積み重ねられ接合された充実体としての量塊が切断面も生々しく露呈しているのである。これに比すれば、インスタレーションなどといって手垢のついた言葉や、空間すら把握できない安易な表現など、軽く吹っ飛んでしまいそうだ。

そのあと色々調べると、この折尾駅が日本初の立体交差駅であることを知った。その際の橋梁のかさ上げに赤煉瓦を使ったのが、この切断された無数の塊の元の姿というわけだ。これが1895年というから、今から120年程前の立体交差化のためにそれらが使われていたことになる。明治28年当時、いったいどれほどの煉瓦の数が、それらを接合する技術が駆使され、そして人が動員されたのだろう。

ここ折尾駅の鉄道の交差は、日本近代のエネエルギーの基幹となった八幡製鉄と筑豊の炭鉱という「鉄と石炭」産出のための鉄道線が、文字どおりこの二つが〈交差する地点〉だったのだ。そしてその鉄路を支えた巨大な土台も、いま日本近代と決別するようにこうして解体され切断され剥き出しになって、消えさろうとしている。

「煉瓦」の製造そのものも、日本近代が西洋から受容したものだ。だがその製造や大規模な構造物もまたこの
現在によって駆逐されようとしているのである。近代の終わりとは、このようにして私たちが営々と積み上げてきたものの解体を、次々と容赦なく転換して行くのだ。でも僕には、それに変わる新しい「現代」があるとは思えない。

近代の喪失と、現代の崩壊の先にあるもの。そんな時代に、私たちが過去の〈遺物〉として廃棄しあるいは保存したものは、自然な強制が自由という名で横行する時代に抗するもっと別な力、いわば〈異物〉としての自らの存在、その力よってこそつねに生まれ変われるはずなのだ。それが〈未来〉という名に値するものの、ひとつとなるのではないだろうか。

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