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美術折々_99
All or Nothing 芸術という未払賃金
「美術 と おカネ」ということでいえば、オランダのアーティストで 経済学者でもあるハンス・アビングは、
かつて『金と芸術』(grambooks 、2007年)という自著の中で次のように述べていた。
「ほとんどの場合、アーティストは無私と見られるか、商業的と見られるかのどちらかである」と。
もちろんここでいう「無私」とは、たんに利己的ではないというより、必ずしも金銭的な「利益」に
こだわらない生き方というか、いわば「非利益的」に作品を生み出すものとしての「無私」という
意味だろうと僕は思う。
しかし実際にアーティストは、そのように無私であるか、あるいは商業的かのどちらかであるにしても、
そのどちらでもあるというアーティストもいるし、またそれぞれへの偏りのどこかに足場を置いて生きざるを
得ない。アーティストというものが、どのように生きていようと、例えば、さまざまな助成や贈与、寄付、
あるいは遺産、献身によって生きながらえていようと、なんらかの稼ぎ、所得を維持しなくては「作品」というものは生まれては来ないのだ。
スイスの経済学者 ブルーノ・フライは「外的報酬は目的ではなく、芸術を制作するところの副産物である」と言ったというが、もしその生涯においてアーティストが、幾ばくかの蓄財やステータスを得られたにしても、
その報酬を「副産物」とするには余りにも素朴すぎはしないか。
外的報酬は確かに制作の結果ではあるだろう。だが、いっぽうで内的報酬を「自己の喜び」や達成感といった
自己満足として充足させていいはずはない。
マルクスがいったように「資本の自己増殖の秘密とはとどのつまり、一定量の他者の不払労働を資本が
自由に処分できるということのなかに解消するのである」(『資本論』第一巻 下)のなら、芸術もまた
不払労働という他者ではないのか。
芸術の、美術の、その始まりの制作(無償労働)に端を発した「剰余価値」が、もし「副産物」であるのなら
芸術という果実は、いまもなお〈搾取〉の格好のえじきであることに変わりはない。
芸術における莫大で無限にもひとしい、生きた「未払賃金」こそじつは芸術をささえる資本の、「おカネ」の
自己増殖の秘密なのではないだろうか。
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美術折々_98
ボヤケタ概念の表と裏
経済誌の「週刊ダイヤモンド」が先月、4月1日号で『美術とおカネ 全解剖』というタイトルで特集を組んで
いた。サブタイトルがいい「アートの裏側全部みせます」。経済誌などふつうは買わないのだが読んでみた。
もちろん「裏側全部」といっても、美術やアートの専門家や関係者からすれば別段、裏側でもなんでもない
のだが。それでも、普段は経済やビジネスで頭が一杯の週刊ダイヤモンドの熱心な読者には、たまにはアート
ビジネスという世界の、「おカネ」の動き方を垣間見るという点では、いつもとは違う刺戟になったかも
知れない。
しかしここでも、例によって「アート」というものが、「芸術」なのか「美術」なのか、「何なのか」が、
僕にはよく分からない。
ただ「アートビジネス」というものがあることだけは、よくわかる。まあよく広範囲かつ多角的に取材した
ものだ、というのが一読しての感想。いたれりつくせりで、「アート」というか、「芸術」というか、
「美術」というか、とにかくそういう「業界」におけるおカネの流れを軸にして、仕事、企業、美術館や
制度、歴史、それに作家をはじめ様々な関係者へのインタヴューを織りまぜながらの総力特集になっていた。
なかでもリアルで笑えたのが、辛辣な「全国主要美術大・芸術大序列マップ」だったりして。
でもでも現在の「美術」って一体なんなんだろう。もちろんココではそんな素朴なギモンは野暮というものか。
この特集のインタヴューの中で、ある企業の社長が「作品でも商品でも、価値そのものを生み出すことが必要だ」と語っていた。現在では、「作品=商品」というのは誰も否定しえない。だとしたら「作品=企業」ということもできる。もっと言えば、「アート=企業」とさえ言うこともできる。すぐれた企業こそ、すぐれた
アーティスト集団だといえるかも知れない。
生みだされた「価値そのもの」というこの一点において、「作品」と「商品」とは同じ意味を持つことになる。
このことで、あるはずの境界は一気に溶解することになる。つまり「価値があるもの」であれば、それが作品であろうと商品であろうと「おカネ」になるということだ。
僕は、あらゆる「アートビジネス」というものは、「ART」や「芸術」、「美術」そのものを問い、あるいは
扱う仕事ではなく(無論そんなことではカネにはならない)、「ART」に「巣くうこと」によって成り立って
いる仕事だと思う。
つきつめると「アートビジネス」とは、とうぜん「アート」そのものである必要はない。
むしろ「ART」のボヤケタ概念を、巧みにあやつるビジネスなのである。付かず離れず「ART」のボヤケタ概念の周辺に触手を働かせることによって稼ぐ仕事なのだ。
「アート」が何であるのか分からない方が、ボヤケタほうが、カネになるという訳である。
すぐれた「価値そのもの」は、どこにだって通用し流通できる。だから「アート」の〈本質〉が不可視なほど、不鮮明なほどカネが動くいて行くのだ。
「アートの裏側」とは、つまるところ「商品の表側」のことなのである。
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美術折々_97
完成もしくは未完を約束する形
例のタワークレーンの「支柱」を眺めていた時、久し振りに思い浮かんだのが、あのブランクーシの作品
『無限柱』である。『空間の鳥』とともに彼の代表作とされるものだ。
藤川 哲「『美術と無限』研究ノート1 」(山口大学哲学研究、2002)によれば、同タイトルの確認されて
いる作品は8点以上という。その中でも母国ルーマニアの「トゥルグ・ジウ公園」に 1938年に設置された
最大の『無限柱』は、高さ29.35m。これは第一次大戦の戦没者のための記念碑として設置されている。
この作品も、よく知られるように「偏菱形」をユニットにして繰り返し垂直に積み上げた鉄の彫刻である。
タワークレーンの支柱が、どのような超高層ビルのためであろうと、クレーンを上昇させかつ支えるために
積み上げられた有限の「柱」であるのに対し、ブランクーシの『無限柱』は、文字通り「無限」を示唆する
以外に何ものをも想起させない、といってもよいだろう。
シンプルな菱形の反復が、なぜ作品の大小にかかわらず「無限」を暗示できたのか。
それはおそらく、台座と先端がどちらも上下半分に切断されているからではないか、と僕は思う。
始まりの台座面は、半分埋もれた状態で見えない部分を連想させ、いっぽう終りであるはずの先端部も
完結せずに途切れたまま、見えない続きを予感させるのだ。
つまりこれは完成していながら、永遠の未完を約束する形なのである。
ブランクーシは「真の形態は無限を示唆するものでなければならないと思う。表面はあたかも永遠に持続し、
あたかも物質から生まれて、ある完全で完璧な存在となったもののように見えなければならない」と
語ったという。
1956年、つまり死の前年。シカゴ市から依頼され結局実現しなかった高さ125mの『無限柱』のプランも
あったらしい。それこそ、永遠の未完を約束するにふさわしい形ではなかったろうか。
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美術折々_96
ある蔓延への、感性の抵抗として (4)
1月の来日に合わせ日本語訳本が出た 美術批評家 ボリス・グロイスの『アート・パワー』(現代企画室、2017年)については、以前「訳語」のことで少し触れた。 (原題は『Art Power』 The MIT Press, 2008)
僕はこのブログの前回(3)において同書が 「日本では多くの誤読や誤用を招くように思われもする」と
書いた。というのは、この国で「アート・パワー」というとき、それが一般化される時、おそらく安易に
「アートの力」として流布し流通するであろうことは、じゅうぶんに予測がつくからだ。
「アートを通じて」、「アートにできること」、「アートで社会を変えたい」、「アートは社会的行動」等々。
現在繰り返し耳にし、用いられる「アートと地域」、「アートと社会」の、といった例の〈関係性〉である。
じつはグロイスが 「Art Power」 という時、そこには〈芸術と権力〉の切ってもきれない関係を踏まえて
「パワー」と言っていることを、私たちはまず知っておく必要がある。それは私たち日本人が「パワー」を
単純に「チカラ」と解するのとは違うということを。
ボリス・グロイスは1947年に旧東ドイツに生まれ、旧ソ連のレニングラード大学に学び、1981年に西ドイツ
に亡命した。以後はドイツやアメリカを拠点に美術批評家・理論家、キュレーターとしても活動している。
そのグロイスの日本での過去の単著に、初期の論考『全体芸術様式スターリン』(現代思潮新社、2000年)
というのがある。これは最初、1988年に西ドイツで出版されているが、この本が書かれたのは旧ソ連時代の1980年代後半、冷戦構造時代の末期である。周知のように1991年にソヴィエト連邦は崩壊する。
この『全体芸術様式スターリン』の中で、グロイスは西欧とソヴィエト社会主義とのそれぞれの経済システムを比較しながら〈芸術と権力〉との関係を鋭く指摘した。例えば、「西欧の芸術家にとって市場がそうであるように、ソヴィエトの芸術家は権力(パワー)を自分とは関わりのない外部として対置することはできない」と
断言する。
それは自分たちの「芸術的意図と権力への意志とが同一のものであるという認識をけっして手放さない」からだともいう。これをロシア・アヴァンギャルドから社会主義リアリズムを経てポストユートピア芸術までを貫く、底流として捉えている。じつはそれらは地続きなのだと。
そこからグロイスは、芸術と権力の関わり、権力への抵抗と権力への意志というものの二重性を暴いてみせた。
そしてこのことは、東西冷戦構造の崩壊から四半世紀以上たち、グローバルな同一化が加速する現在の
「アートワールド」においても、私たちは「権力(パワー)を自分とは関わりのない外部として対置する
ことはできない」ことに何ら変わりはないのだ。
ではその「アート・パワー」とは何なのだろう。