calendar_viewer 元村正信の美術折々/2017-04

2017/4/28 (金)

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美術折々_95

〈缶〉あるいは〈肉体〉


 
一昨日の、静かすぎる雨の朝。 そのまどろみを不意に打ち破る、鈍くしゃがれた奇声に
思わず窓のそとを見た。

大きな袋一杯のアキ缶を天秤ばりに抱えた自転車乗りのジイさんが倒れている。
すぐさま軽トラの運転手と同乗者が降りてきて、倒れたジイさんとその缶袋をかかえ起こす。
さらにその叫び声を聞き付けて、近くの若い警官までが駆け付けて来た。

ジイさんはそのあいだ何か怒鳴っていたが、どうやら怪我もなく大したことはなかったようだ。
警官はしばらく双方の事情を聴取してはいたが、やがて散会するようにして誰もいなくなった。

僕はしばらくそのまま何を見るということもなく、ぼんやりと窓のそとを眺め続けた。

そうなのだ。突然、若葉をぬらすやわらかな雨を切り裂いた、先ほどのジイさんの絞り出すような〈声〉は、
いったい誰に向けられていたのか。押しつぶされたのは、袋一杯の缶だけではない。

あらゆる慈悲と差別の不均衡によってつぶされた〈声〉も、挙げ句の果てにきょうの「糧」の証しとなった。
だから、ジイさんのひしゃいだ〈缶〉は、多くの負い目を刻んだみずからの〈肉体〉そのものなのだ。

〈奇声〉とは声にならない声という、ひとつの怨讐の声でもある。

窓のそとのすれ違い。ひとり去っていった自転車乗りのジイさん。
もしくは、缶あるいは肉体の転倒。
四月も終わりに近い、そぼ降る雨の朝のことだった。

2017/4/19 (水)

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美術折々_94

あらたな「風景」の出現と喪失


年に二回、ちょうどいまの四月と秋の十月に、手元に届けられる美術同人誌がある。

東京・国分寺に発行所を置き、北九州市出身で画家の牧野伊三夫が発行人をつとめる、その名の通り
『四月と十月』だ。同人の作品と文章がセットになった「アトリエから」の近況報告や雑報、他に8本程の
連載寄稿文からなる。

その中で僕が好きな連載のひとつに、鈴木伸子の『東京風景』というのがある。
彼女は、雑誌『東京人』の副編集長を経て、いまはフリーの編集者なのだが、また同時に生まれ育った
東京という町への愛着ある眼差しを持った「風景」の冷静な観察者でもある。

先日届いた同誌36号の『東京風景』第28回には、「都心の建設工事現場」と題して「渋谷の駅前で、銀座線の
高架の向こうに並び立つ色とりどりのクレーンを見て、その迫力ある風景に思わず立ち止まった。ここには
数年後、何本もの超高層ビルが建っているのだろう」と書かれてあった。

僕が暮らしているのは福岡なので場所も違うが、じつは僕もこのタワークレーンのある工事現場の前で、
いつも立ち止まる一人なのだ。身近なところでいえば、地下鉄赤坂駅周辺もそうだ。
東と西で二つの新しいタワーマンションがそれぞれ赤坂門の交差点を挟み、見下ろすようにして建設中だ。

そのひとつ。駅上の明治通りから北へひとつ目の道を左へ入ると、ちょうど工事現場の裏手入り口すぐに、
そのタワークレーンが建物に沿って張り付きながら、支柱ともども空に向けて高々と垂直に延びている。鮮やかな色の躯体。そこを通るたびに足を止め、はるか上をしばらく見上げている自分がいる。なぜなのだろう。

僕にとってそれは、迫力や威圧感あるいは躯体の美しさへの関心とも少し違う。たぶん僕はクレーンの天辺に
据えられた箱型の運転席の中を見ているのだと思う。いや実際にはそこを見ることは出来ないのだから、きっとあの狭く小さな空間から運転者ひとりだけが見渡すことのできる、かりそめの、その風景の感受の仕方を想像
しているのだと思う。

これはもちろん憬れや羨ましさとも違う。むしろ「風景」の喪失のことなのだ。次々と立ちはだかるように、
私たちは何かを仕組む。たえず光りは、さえぎられる。「風景」の喪失とは、それぞれの原風景を失うことではない。そうではなく、次々と新たな「原風景」が何かを遮断するようにして建設され続けることなのだ。
だから絶えず今ある「風景」は喪失され続けるしかない。

おそらく「望郷」というものも、遠く離れた懐かしさの念からではなく、「いまここ」にはないという喪失感のことではないだろうか。僕のはるか頭上の、タワークレーンの高貴な運転者たちもまた、そのような「風景」の
喪失を、少なくはない痛苦と闘いながら、誰よりも先に自らが目撃しているにちがいない。

2017/4/12 (水)

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美術折々_93

花の挽歌

4月21日に「屋根裏貘」で新刊の出版記念トークをするという上野 誠は奈良大学教授で、気鋭の万葉研究者
である。その上野の研究対象でもある「万葉集」には、挽歌、相聞歌、雑歌の三大部立があることはよく知ら
れている。

この挽歌というなら、現在 アートスペース貘で開催中の、尾花成春展のタイトルも「花の挽歌」だ。
今は亡き、尾花成春が描いた「花」の油彩画の数々をセレクトした今回の企画は、それを見る者とともに悼む、
まさに追悼の「歌」となっている。だから「花の挽歌」とは、様々な一輪の「花」を晩年は特に好んで描いた
尾花への、貘のオーナー小田律子のオマージュでもあるのだ。

尾花成春は、1926年福岡県浮羽郡吉井町に生まれ、昨年2016年7月に90歳で亡くなった画家である。
7年前、同じ貘での尾花の個展「花に語る」。まるで黒い土を塗り固めたようなその「闇」に咲く、か細き
花をして岩本鉄郎は、「此処にこの世ならぬ白い花がある」と記している。

かつて九州派にも関わったことのある画家、尾花成春といえば、やはり僕は 1980年代以降の、いわゆる
「筑後川」の連作を挙げたい。それらは枯れたようでありながら、しかし大きな川を渡る風に吹かれ、
なぎ倒されそうにあっても、川岸に根をはり群生する草木が執拗に、うねるように描かれていた。

なぜ、尾花が晩年「筑後川」から離れ、一連の「花」へと向かったのかを、僕は知るよしもない。
だがその移行には、さきに岩本鉄郎が読み取ったように「この世ならぬ」ものを、すでに尾花の中では
一輪の「花」に託して描き切ろうとする、企みがあったのかも知れない。

だとするなら、これらの「花」は、何かに語りかけるように描こうとした、彼じしんの願望の形見だったの
だろうか。私たちはまさに、ここでその形を見ているのである。

吉井に生まれ、吉井で逝った画家。
こうして今となっては無言の花の歌となってしまった、この春の寂しさよ。

                                 [同展は4月16日(日)まで]

2017/4/8 (土)

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美術折々_92

繁栄と、悪化の、あいだに

世界遺産登録数 51件を有する国、イタリア。その数は世界一という。
「観光国」でもあるイタリアの中で、30年前の1987年に世界遺産に登録されている「水の都」ベネチア。

4月1日(土)付 読売新聞朝刊のローマ発の記事には、今年2月初旬「観光客に日常生活が妨害されている」
として、ベネチア市の住民150人が対策を求めて抗議デモを起こしたというリポートが載っていた。

同市によると、2014年に市中心部を訪れた観光客数は約260万人(市の人口約26万5000人)。
なんと市民の10倍という驚くべき数だ。ちなみに、2015年の第56回ベネチア・ビエンナーレ入場者数は
約50万人超。

いまではベネチアの「市中心部は観光客であふれかえり」、観光客向けのホテルやレストラン、店が増え続ける一方で住民たちにとっては「生活環境の悪化」が、問題となっているらしい。先の抗議デモもそれへの反発の
表れなのだろう。ある歯科医の話しによると「街が観光客に乗っ取られたようだ」という。この嘆きの、
真偽のほどは分からないが、それほどに観光客が押し寄せてはいるのだろう。

ユネスコも勝手なもので、世界各地の遺産登録を次々と採択しながら、逆にベネチアのような既存登録地での
観光客の増加による「自然環境の悪化」を指摘して、それに「警鐘」を鳴らすといった〈偽善〉にもあきれて
しまう。

このような 〈繁栄と悪化〉との同存の、グローバル的光景は今では世界中どこにでもに見られる。
日本でも2016年現在で、20件の世界遺産登録があるらしい。それぞれの遺産や地域が観光化され
人が集まれば、財政も潤うし、人口減に悩む町や村も活性化されるという訳だ。

だが、たとえ「世界遺産」に登録されてなくとも、先人たちが残した〈遺産〉というものは、目に見えるもの
のみならず、じつは私たちの「無意識」というかたちで、身の回りの土地にも残存しているものだ。

「遺産」というものが、人間の負い目、やましさ、あるいは犠牲や負債を含めた広義の「文化」の軌跡である
のなら、それはまたフロイトの言う「罪の意識(後ろめたさ)」となって、いまの私たちにも張り付いている
のではないだろうか。

「遺産」を目指して日々殺到する私たち。しかし、繁栄あるいは悪化という二極化の中で、求められる
「にぎわい」への期待を裏返せば、やむことのない衰退、衰弱への強迫感が、つねに私たちを脅かし続けて
いるからなのだろうか。

私たちの罪深さと地続きの、その先にあるはずの〈出口〉は、いまだ見つかってはいない。